戦時中、強制収容所で餓死刑になる男性の身代わりを自ら申し出たコルベ神父(マキシミリアノ・マリア・コルベ、1894~1941)。日本でも有名なこのポーランド人司祭をテーマにしたシンポジウム「日本の社会奉仕に求められるもの―アウシュビッツの聖者コルベ神父の来日から現在、未来まで」(主催:ポーランド広報文化センター、上智大学)が11月30日、上智大学(東京都千代田区)で開催された。定員をはるかに上回る200人以上が参加した。
まず谷崎新一郎神父(コンベンツアル聖フランシスコ修道会責任役員)が、「コルベ神父の来日から日本における社会奉仕の形について」と題して基調講演を行った。
1930(昭和5)年から36(昭和11)年にかけて、コルベ神父は日本で宣教に携わった。長崎に到着して間もなく、伝道用月刊誌「無原罪の聖母の騎士」(現在の「聖母の騎士」)の出版を開始し、翌年には長崎市本河内町に「聖母の騎士修道院」を設立。そこには祈りの場だけでなく、印刷所や神学校、幼稚園も作られた。
その当時、コルベ神父にとって一番つらかったのは、支えとなるはずの同じポーランド人の会員が「ほどほどに頑張ればいいではないか」という考えを示したことだった。また、ポーランドにいる弟が亡くなったことも心を痛める原因の1つだったという。「そのような体験を通して、コルベ神父の内面がさらに深まっていったのではないか」と谷崎神父は話す。
またコルベ神父は、「さまざまな主義主張がある中で、本物の愛情こそ大切である」と説き、「憎しみは何も作り出す力を持ちません。愛だけが一切を作り出す力です」と強制収容所で話していたという。
「コルベ神父は、神からもらった愛を分かち合うため、あらゆる手段を使うことを考えました。最終的には自分の命も道具にし、アウシュビッツ強制収容所で1人の男性の身代わりになりました。多くの人は、コルベ神父のようには生きられないと言います。しかしコルベ神父は、『本物の愛に出会ったら、人は燃える。そして、その燃えた炎は周りに移っていく』と言っています。彼自身も、アウシュビッツ強制収容所の焼却炉で最終的には燃え尽きました。でも、その愛の炎は日本に届けられています」
さらに社会で奉仕することについて、次のように語った。
「どんな奉仕でも、心からの愛情を分かち合うことが根底にないと、意味がありません。そして、上から目線でなく、寄り添い、人の気持ちを受け止める。そして場合によっては、自分の大切なものを献(ささ)げる。こういうことが大切だと思います」
続いて栃本一三郎(とちもと・いちさぶろう)教授(上智大学総合人間科学部社会福祉学科)が「上智の社会奉仕の変遷と今日―修道会・教育・社会事業」というテーマで語った。戦国時代に出版された教理書『どちりいな・きりしたん』の最後には、マタイ25章にある隣人愛を箇条書きにした、14の「慈悲の所作」が記されている。当時、キリシタン大名から庶民に至るまで、実際にその教えに従って慈善事業に寄進し、自発的に救済活動に参加したという。その精神は、現在の上智大学の社会福祉への取り組みにも引き継がれていると述べた。
シンポジウムでは、光延(みつのぶ)一郎神父(上智大学神学部教授)がコルベ神父と上智大学のつながりについて語った。その中で、遠藤周作が『女の一生』(2部)でコルベ神父の話を書いていると紹介した。コルベ神父は、アウシュビッツという人間同士の愛が生まれない場所でも最後まで人間を信じ、「愛がない世界ならば、愛をつくらねば・・・」と語っていること、「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」(ヨハネ15:13)という御言葉はまさにコルベ神父のイメージだという。
シンポジウムに参加した同大の女子学生(2年)は、「『愛のないところには、愛を作るべき』というコルベ神父の言葉が心に残った。他人の気持ちに寄り添いながら、自分でもできることを探していきたい」と話した。