口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです。・・・ところで、信じたことのない方を、どうして呼び求められよう。聞いたことのない方を、どうして信じられよう。また、宣べ伝える人がなければ、どうして聞くことができよう。遣わされないで、どうして宣べ伝えることができよう。「良い知らせを伝える者の足は、なんと美しいことか」と書いてあるとおりです。(ローマ10:9~15)
信仰とは、「口でイエスは主であると公に言い表し」ということです(9節)。秘かにじゃないんです。皆に聞こえる言葉で言い表し、「心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じる」(同)というのが信仰の告白です。
私どもは、その信仰の言葉を与えればいい。その信仰の言葉を口にすることができた者は、すでにそれで救われるんだ。われわれ説教者がやることは、それに尽きる。ルターもそのことに改めて深く気付かせられた。これは言ってみれば、私どもが受洗志願している方を、「このことさえ分かっていれば、洗礼を受けるに十分だ」と判断する基準です。
「口でイエスは主であると公に言い表し、心で・・・信じるなら」とあるので、心が先か言葉が先かと議論する人がいますけれども、それはつまらない議論です。言葉も心も1つになって、問題はイエスを主とすることです。自分が主ではなくなるということです。イエスは主であるということは、自分はイエスの僕(しもべ)だと宣言することです。そして、それが可能になるのは、神がイエスをよみがえらせてくださったという出来事によるとはっきり認めることです。自分の信仰の力とか、知識とかは問題じゃない。イエスを墓から呼び起こした神の力が、いま私を生かしている。ここでは十字架よりもよみがえりのことが明確に語られていることに心を深く捉えられます。
説教塾の仲間から、こういう問いがありました。「説教は神の言葉であるというけれども、いつ、どうやって神の言葉になるんですか。一生懸命、聖書の勉強をして、聖書を説いていく私の言葉は人間の言葉なんだけれども、それが聴いている人に神の言葉として聞こえるようになる(これが出来事、事件、本当に大事件ですが)、私の言葉が神の言葉として聞こえるなんて、その大事件はいつ、どのようにして起こるんですか。いつも起こるわけではないですよね」。そう言われて、私はびっくりした。肝っ玉がひっくり返ると言いますけれど、本当にそうなりました。「え、説教塾の仲間がそんなふうに考えているのか」と。私は打ち消して、「そんなことない、そんなことない。私たちが説教を始めた時、説教は初めから神の言葉として聞こえるという出来事が起こっているんだ」と答えました。
ちょうどその頃、女性たちの座談会を読んでいて、その中で牧師夫人の1人がこういうふうに言っている。「うちの主人の説教が神の言葉として聞こえるのは、そうねえ、年に1度かな」(笑)。私は呆(あき)れ返って、「あと51回は空振りか」と思いました(笑)。52回に1回は起こるかもしれない奇跡を待って空しい思いで帰ること51回に及ぶのか。そんなことはない。皆さんが毎日曜日、毎主日、礼拝に行って聴いている説教は、神の言葉として聞こえている。語られている。聞こえるんです。そこに説教塾の1つの大きな課題があります。
パウロがそのことを明確に語っています。こういう信仰の言葉はどこから出てくるのか。「信じたことのない方を、どうして呼び求められよう。聞いたことのない方を、どうして信じられよう。また、宣べ伝える人がなければ、どうして聞くことができよう」(14節)とあります。
伝道者の出番です。日本人が神様を知るにはどうしたらいいのか。「私たちがいなかったら、どうしようもないですよ」と言っているんです。「説教者がいなければ、この国に神の言葉は聞こえず、信仰の言葉は生まれませんよ」と。
だからといって、こちらがふんぞり返ることではない。パウロはすぐそれに付け加えて、「遣わされないで、どうして宣べ伝えることができよう」(15節)と書いています。「宣べ伝える人がなければ」ということは、宣べ伝える人がいるということです。なぜ宣べ伝える人がいるかと言ったら、神様が遣わしてくださるからだと。
今日の礼拝を「派遣礼拝」と呼んでいる根拠はここにあります。説教塾の新しい歴史が始まる。伝道者の新しい歩みが始まる。神の言葉を語る者の歩みが始まる。
どうして私どもが神の言葉を語り、神のご臨在を自らの言葉をもって担うことができるのか。それは、神様が遣わしてくださるからだと。
説教というものは、語った端から神の言葉の出来事が始まっていると私は言いました。どうしてそう言えるのか。あなたが語っていることは人間の言葉にすぎないではないか。それがどうして神の言葉なんだ。
説教黙想の模範を示してくれたイーヴァントの『説教学講義』(新教出版社)の中で、「私たちが語るのは神の言葉だ。どうしてそんなことが可能か」と書いています。「どうしてわれわれ人間が語る言葉が神の言葉なのか」という問いに対して、「神が私を遣わしてくださったから。ご自身の言葉を語らせるために。それならば、その神が私たちに神の言葉を語ることに可能な力を備え、道を備えていてくださることは明らかだ」と。
またトゥルナイゼンも『牧会学』(日本キリスト教団出版局)の中で、「神の言葉が語られなければ、牧師としての対話は成り立たない」ということを論じています。「牧師は一人一人の魂に神の言葉を伝えることができる。なぜかと言えば、そのためにあなたは遣わされているからだ。遣わしてくださった神が私たちの口封じなんかなさらない。神が言葉を与えてくださる。神が言葉を通じて霊を与えてくださる。何を恐れる必要があるだろうか。あなたが人間だから神の言葉を語れないと恐れる必要があるのだろうか。神が命じておられる」と。
われわれの先輩たちがそうやって語ってくれている信仰の言葉は確かな証しであると私は思います。
そのように生きる者たちのことを「良い知らせを伝える者の足は、なんと美しいことか」(15節)と書いている。この「美しい」というのはいろんな訳が可能ですけれども、私の好きな1つの翻訳は、「この人はちょうどいい時に現れた」というものです。どうしようもなくなっている時に、この人が来てくれた。そして、福音を伝えてくれた。神の勝利を、恵みの勝利を、イエス・キリストのいのちの勝利を伝えてくれた。本当にいい時だ。
「美しい」というこの訳を私は好きです。私という説教者の足が美しく見えるというのです。皆さんの御言葉を伝える足が美しく見えるんです。皆さんを迎える人たちの目に。皆さんの言葉を聴く人々の目に。「ああ、この人の足は美しい。神の美しさを宿しているゆえに」。
今、私どもは改めて神の派遣の言葉を聴きます。