ヨーロッパでの大役を無事果たした天正遣欧少年使節は1590年、実に8年ぶりに帰国を果たしました。帰国後、この少年たち(といっても、彼らはすでに20歳を越す青年になっておりました)がどのような人生を送ったか、最後に記しておきたいと思います。
1593年、4人は長崎・天草河内浦の修練院に入り、神父になるための勉強を続け、そこでイエズス会に正式入会しています。しかし、その後、キリシタンへの取り締まりが次第に厳しくなっていく中で、1601年、 伊東マンショ、中浦ジュリアン、原マルチノの3人は神学を学ぶため、マカオのコレジオ(神学校)に留学します。この時点で千々石ミゲルはイエズス会を脱会。千々石清左衛門と名乗り、大村喜前(よしあき)に仕え、その後どうなったのかはっきりしたことが分からないようです。
マカオでの3年間の学びを終えた3人は長崎に戻り、そろって司祭に叙階されました。しかし、使節の主席正使であった伊東マンショは1608年、長崎で病死します。副使であった原マルチノは14年にキリシタン弾圧を逃れてマカオに脱出します。そして、かの地で29年に病死しています。
もう1人の副使であった中浦ジュリアンは、弾圧の中で潜伏しながら布教を続けますが、長崎でついに捕らえられ、西坂で逆さにつるされて息を引き取りました。中浦ジュリアンがローマに宛てた手紙が今も西坂の二十六聖人記念館に残されていて、その中で「私の慰めはかつて聖なる都ローマから受けた愛に満ちた恵みだけです」と記しています。あのサンピエトロ大聖堂でローマ教皇たちに大歓迎を受けた記憶が、彼を苦しみの中で慰め続けていたのでしょう。
時の政治によって翻弄(ほんろう)されたこの少年たちの生涯や、数え切れないほどの殉教者のことを考えるとき、悲しみで言葉を失います。今回の雲仙・長崎キリシタンの旅を通して、いわれなき苦しみを負った多くの純朴な人々、命を懸けて日本宣教を試みた宣教師たち、迫害の中でも、その信仰の火を決して絶やすことなく子孫に伝え続けた人々、そして、苦しみから立ち上がった多くの人々のことを思うと、キリストの受難と復活のお姿がおのずと浮かび上がってくるようです。
旅の報告をここまで読んでくださった皆様に心から感謝して、今回の報告を終わりたいと思います。
◇