ドロ神父が日本に行くことになったとき、彼の母親は「どうして天国に行くのにそんなに遠くまで行く必要があるの?」と嘆き悲しんだそうです。もう2度と会うことが許されないかもしれないことを知っていたのですね。その時、両親はドロ神父に遺産の分け前を手渡してくれたそうです。その当時の額で24万フラン(現在のお金で約2億6千万円)あったそうです。ドロ神父はその資金を元手に日本で、特に長崎の外海(そとめ)地区で50年近く1度もフランスに帰ることなく、神様の仕事にまい進したのでした。
1868年(慶応4年・明治元年)に来日したドロ神父は、最初、長崎や横浜で布教活動を行いました。その後、73年(明治6年)に各地に散らされていたキリシタンの流刑が解かれて長崎の浦上村に帰還したことを知って、再び長崎に戻っていきました。そして、カトリックに復帰した信徒や隠れキリシタンたちのために奉仕をしていきました。その後、ドロ神父は78(明治12)年に出津(しつ)教会の主任司祭として外海地区に派遣されました。
外海地区でドロ神父が目にしたのは、そこに住むキリシタンたちの極端な貧しさでした。そこには孤児や捨て子が多くいて、特に海難事故で一家の働き手である夫や息子を失った家族が悲惨な生活を送っていることを知り、布教とともに社会福祉活動を行う必要を強く感じたのでした。そこでまず、信仰を中心とした村づくりを始めるために出津教会堂を建築しました。外海にあるこの地方は前述しましたように、海からの風が強く、気候風土の厳しいところです。建築にも詳しいドロ神父は自ら設計し自ら建築していきました。強風にも負けないために屋根を低くして、大変頑丈な建物にしています。
写真にある教会堂はドロ神父が建てたもので、今も立派に残っています。現在までにこの教会からなんと枢機卿(ローマ教皇になる資格を持つ人)が2人、神父が24人、修道士やシスターを含めると350人ほどが輩出されているというではありませんか。誰からも見捨てられたような寒村の極度に地理的条件の悪い地域を開発し、布教とともに貧しい人々を貧困から救出して生活環境を変えていったドロ神父の働きに深い感銘を覚えるのでした。
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