エンディング産業展2017
去る8月23日から3日間、東京ビッグサイトにて第3回エンディング産業展が開催され、3日間で2・5万人ほどが来場した。日本の年間死亡者数が130万人を超え、今後20年間は増え続け、160万人に達するといわれる中、新規参入する企業が相次いでいる。
昨今、日本人の平均寿命は飛躍的に伸び、2016年には、女性87・14歳、男性80・98歳となり、いずれも過去最高を更新した。核家族化が進み、個性豊かな高齢者が大勢亡くなるということは、エンディングに関わる内容も多様化してくる可能性がある。そういう意味では話題性のある展示会であり、TVなどでも取り上げられていた。
ところが、このエンディング産業展に参加して感じたことだが、確かにさまざまな分野からの参入が見られるが、どの展示もあまりインパクトのある牽引力を示せていない。昔からある仏教葬儀文化の限られた領域で、重箱の隅をつつくような展示ばかりに思えるのである。
規模が違うのであまり比較にはならないが、自動車の展示会であれば、次世代の方向性を示すコンセプトが大企業から示され、中小の企業がその流れに沿って周辺技術を展示するのが常である。大企業の中にいた私は、自らの展示が業界全体の進むべき道を示している感覚を持っていた。
しかし、このエンディング産業展に至っては、将来を指し示す展示が見当たらない。それはいったいなぜなのだろうか? 今後、仏教葬儀文化の枠でひしめき合っている企業が、キリスト教葬儀文化に目覚めることがあるのだろうか? そういったことを考える良い機会になった。
葬儀業界の現状
葬儀の市場規模は、1兆7600億円といわれ、その中に5千社以上の葬儀社がしのぎを削っている。最も売り上げの多い葬儀社であってもシェアは2パーセント程度。地元密着の零細企業ばかりと言っても過言ではない。要するに、数百年続いてきた仏教式葬儀文化の枠を超えることが難しく、新しい企画を打ち出して業界をリードするのが難しい現実がある。
仏教葬儀文化の中心は「供養」である。「供養」されるのは故人であり、残された者(遺族)ではない。そうなると、亡くなって何も応答しない故人のためにすることは、時代が進んでも大きく変化しようがないのだろう。意味の分からない読経であっても、故人の「供養」のために必要とされてきたのだから、残されたものが勝手に変えるわけにはいかない。エンディング産業展の展示内容も同様に、変化を拒む体質を持ち合わせている。
無宗教葬の現実
そういった葬式仏教のしがらみを嫌い、最近は無宗教葬や自由葬といった宗教色のない葬儀が全体の18パーセント程度にまで増えてきた。今後も少しずつ増えていくだろうが、拡大のスピードは遅い。大手の葬儀社に聞いてみると、宗教者のいない葬儀は儀式になりにくく、あまり歓迎していないそうだ。
無宗教葬では、聖書からのメッセージや賛美歌はないが、キリスト教葬儀に非常によく似たプログラムになる。故人のために行う「供養」から、参列者に心配りをした内容が多くなるためだ。それでも、故人を思う参列者の祈り心を支えなければ葬儀にならないため、葬儀社のスタッフが「黙祷!」と掛け声をかけて儀式の体裁をとる。
キリスト教葬儀の将来は?
キリスト教葬儀は、亡くなった故人のためにではなく、残された者(遺族)のために行う。まして故人を極楽浄土に送るための「供養」の意味はない。既に私たちの思いをはるかに超えた全能の創造主が、故人を愛して召してくださったのだから、参列者は、故人の近親者を慰めるために寄り添い、故人を偲び、故人の生涯を導いた神様に感謝をささげるのがキリスト教葬儀である。
応答できない故人のためではなく、良しあしを判断できる残された者たちのためであることが明白である以上、キリスト教葬儀は多様な展開を許容できる性質を持っている。故人の供養を中心とする仏教葬儀文化の中で変化を拒んできたエンディング産業が、キリスト教葬儀に目覚めた途端、大きく変貌する要素がここにある。(つづく)
◇