2年前の秋から訪問を続けてきた高齢の女性が天に召された。100年近い長い年月を駆け抜け、人生の喜びと感謝を関わる人々に残された。私たちがお交わりできた時間はわずかだが、大変貴重な体験を頂いたように思う。
特に大きな働きをされた方ではない。しかし、あらゆる環境で柔軟に自然体を貫いてこられたような方だった。ご家族を支えながら、ボランティア活動にも積極的に励んでこられた。若い頃に信仰を持ち、1941(昭和16)年、大戦の最中に洗礼を受けておられたが、ご家族が信仰を持つまでそのことを打ち明けることはなかった。
仏壇を受け継いでおられたが、その中にご自分の大切なものをしまい込み、その前に座って、天の神様に祈りを積まれていたようだ。隠しておられたわけではないと思うが、自然体なので、彼女の信仰が天の神様に向かっていることを、誰も知らなかったらしい。
神様は、そんな彼女の祈りに応えるかのように、やがてご家族が信仰を持ち、共に教会に行ける時が来て、初めてご自身の信仰を告白された。もう80歳になろうとしているときである。そして90歳になり、ご長女家族と同居するようになって、ようやく熱心に教会に通われるようになった。
私たちが訪問すると、いつも笑顔を絶やさず温かく迎えてくださった。100歳に近い高齢とは思えないほど会話はスムーズで、何かと気配りをしてくださった。目の前には鉛筆とメモが用意され、大切なことは記録に残しておくようにされていた。
短い時間の会話にも熱心に応答され、交わりを楽しんでくださった。祈りと賛美に心を合わせ、クリスマスには共に楽しそうに賛美歌を歌ってくださった。決して自由の利く元気な体ではないが、その微笑から生き生きとした命の力を感じ取ることができた。
そんな彼女が今年になり、さらに体力が落ちたのだが、出会う人たちにお別れのあいさつを始めたという。まるで引っ越しの際にお世話になった人にお礼のあいさつをされているようであった。ご長女から葬儀の相談があったが、それから間もなく、静かに眠るように天に召されていかれた。現代社会では珍しくなったが、老衰によってご自宅で召されたのである。
お葬式に準備された写真は、おしゃれをしてほほ笑んでおられる素敵なものだった。確かに良い写真だが、実際にはもっと素敵な微笑を内側に持っておられたように私は感じた。人生のそれぞれの局面で、すべてを受け入れ、喜んでおられる様子が脳裏に浮かび上がる。
宣教はキリストの福音を伝えることである。聖書に記される福音は、確かに人を生かす力がある。しかし、その福音を信じる人の人生が証しになってこそ、宣教は進んでいくに違いない。
人は生まれてくる環境を自分で選ぶことはできない。神様が備えてくださったそれぞれの場がその人の人生であり、福音宣教の現場になる。
私たちも、人生の荒波の中で、信仰をもってすべてを受け入れ、柔軟に、自然体を貫き通せるようになりたいものだ。そして、多くの人々に希望を与える素敵な微笑を残して天国に凱旋したい。
「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです」(Ⅰテサロニケ5章16~18節)
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