「祝宴の家に行くよりは、喪中の家に行くほうがよい。そこには、すべての人の終わりがあり、生きている者がそれを心に留めるようになるからだ」(伝道者の書7章2節)
核家族化が進み、「死」を間近に経験することの少ない時代だが、日本では毎日4千人近い人が、主に病院や施設で亡くなっている。元気に活動している人から目を移し、弱さの極限である「死」に向かう人々に寄り添うなら、人の終末の現場を目の当たりにすることになる。
今年も8月中旬にエンディング産業展が東京のビッグサイトで開催され、3万人近い来場者が見込まれている。内容は、終活・葬儀・埋葬・仏壇・供養・終末関連の企業展示である。多死社会といわれる日本では、「死」を題材としたビジネス界の活況が著しい。
葬儀を契機とした宣教の働きを担う私たちも、目的が宣教とはいえ、このような産業と大いに関わりがある。しかし、単なる企業活動と異なるのは、私たちの内に住むキリストが、人の思いをはるかに超えて「死」に寄り添ってくださることである。宣教の醍醐味(だいごみ)はまさにここにある。
有限の世界に生きる人間は、どのような働きをもってしても「死」を乗り越えることはできない。しかし、私たちを造られた方は、人の「死」に寄り添い、溢れるばかりの慰めと永遠の希望を与えてくださる方である。この力強い方こそ、復活の主イエス・キリストである。
キリストは、謙遜をまとって寄り添ってくださる。
すべての人は罪を犯し、神から遠く離れ、死ぬべきものになったと聖書にあるが、そのような絶望的な人の世界に、天地を造られた全能の神の独り子が、人間の赤子としてお生まれになった。
キリストが生まれたのは、ベツレヘムの家畜小屋であった。どのような弱さの中にある者でも招かれていることのしるしである。この方は、人の弱さのただ中に、謙遜を身にまとって寄り添ってくださる。
キリストは、私たちの「死」の苦しみを背負ってくださる。
キリストが、人の罪の身代わりとなって十字架にかかったことは誰もが知っている。しかし、その意味を本当に知るのは、人が「死」の苦しみを実際に味わうときである。「死」を迎えようとする本人とその家族の苦しみをキリストは確かに背負うことができる。
「死」の現実を前にして、やり場のない悲しみ、苦しみを抱え、助けを求める人々のもとへ、恐れることなく、ためらうことなく寄り添ってくださるのは、イエス・キリストご自身である。
キリストは、「死」に勝利して寄り添ってくださる。
キリストは、十字架にかかり、死んで葬られたが、3日目に「死」を打ち破ってよみがえられた。人には解決できない「死」に勝利して、永遠の体をもって復活されたのである。
人にとって「死」は、悲しみであり絶望である。その先にいかなる希望も人の中から見いだすことはできない。しかし、「死」を打ち破って永遠に生きておられるキリストは、私たちに真の慰めと希望を与えてくださる。この方が人の「死」に寄り添ってくださるからこそ、「人は死んでも生きる」というキリストの言葉が力強く私たちに響いてくる。
「イエスは言われた。『わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか』」(ヨハネの福音書11章25、26節)
私たちは、キリストと共に人の「死」に寄り添うように導かれている。「死」は確かに悲しい現実である。しかし、キリストご自身が溢れるばかりの慰めと永遠の希望を与えてくださるとき、召される方やそのご家族と共に、悲しみの中にも感謝と賛美をささげることができる。それは、天地を造られた神様への、心を込めた礼拝の時になる。
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