年間死亡者数の増加に伴い、エンディング産業へ新規参入する企業が増えている。しかし、この業界の背後には、「供養」という言葉に代表される仏教葬儀文化があり、斬新な企画が生まれにくい体質がある。
本来、仏教の「供養」とは、仏や諸天といった礼拝の対象にささげものをすることだったが、仏教が葬儀文化を形成する中、次第に先祖に対する「追善供養」を指すようになっていった。
「追善供養」とは、生きている人が行う善行によって、亡くなった人が報われ、それがまた自分に戻ってくるという考え方によるもので、仏教式の葬儀だけでなく、葬儀後の「墓参り」や「法要」にも反映されている。
亡くなった人への思いやりが、さまざまな「追善供養」の習慣を生み、さらに江戸時代の檀家制度によって国民全員が仏教徒になることを求められる中、それらの習慣が日本の「家」制度の中で長年受け継がれてきた。
仏教式葬儀に続く「追善供養」(法要)の中で、代表的なものを以下に示す。まず死者が成仏する(仏になる)ために入る冥界の入り口(関所)には、不動明王(裁判官)がいるので、残された者たちは、故人が亡くなって7日目にこの不動明王に仕える必要がある。これが初七日といわれる法要の習慣である。
次に、14日目には釈迦如来、21日目には文殊菩薩、28日目には普賢菩薩、35日目には地蔵菩薩、42日目には弥勒菩薩、そして49日目には薬師如来という裁判官が故人の罪を裁くため、遺族はそれぞれの裁判官に向けて仕える法要を行う。
この49日の法要までは、死者の霊魂は極楽浄土への旅立ちができないといわれるため、「家」の中で大切に守られてきた。さらに、49日が過ぎても、百か日、一周忌、三回忌、七回忌、十三回忌、三十三回忌と「追善供養」(法要)の習慣が受け継がれている。
このように長年受け継がれてきた葬儀仏教の習慣だが、現代社会では、核家族化が進み、葬儀文化を支えていた「家」制度自体が急速に崩壊してきた。それに伴い、「追善供養」の習慣を「家」の中で継続することが難しくなってきたのである。都会では葬儀さえ行わない人が増えてきている。
一方、最近の葬儀は告別式と呼ばれるように、故人との「お別れ」の式であり、「追善供養」する意味合いはかなり薄くなった。故人は天国(神様のもと)に旅立ったので、葬儀は故人と「お別れ」をする場と考えている人が多くなっている。
墓参りや家族親族の「法要」でも、「追善供養」より、故人を思い起こして感謝し、家族の絆を確かめることを主な目的とするように変化してきた。
このような傾向の中、エンディング産業は「追善供養」の部分は僧侶にお任せし、人々の求める「お別れ」「感謝」「家族の絆」などのニーズに沿ってサービスを提供するように変化してきた。新規参入する企業が多い分野である。
通常の産業であれば、社会のニーズに企業努力が向けられ、新しい企画が生まれ、伝統的なものは排除されていくものだが、エンディング産業に限っては、相変わらず「追善供養」を担う僧侶の読経がなくなることはない。それどころか葬儀社にとって、宗教者は儀式を存続させる重要な要素だと考えられている。
実際、エンディング産業にとって、「追善供養」に関わる仏教葬儀文化は少々お荷物なのだが、彼らの得意とするサービスだけでは、遺族の「祈り心」を支えることができないらしい。僧侶の読経の意味は分からなくても、参列者の祈り(黙祷)を合わせ儀式にすることはできる。
宗教者のいない無宗教葬儀においては、お花で飾られた故人の棺にふたを閉める際、葬儀社スタッフの「黙祷!」の声が響き渡る。家族の祈り心が詰まった大切な時を支えようとする葬儀社の企業努力である。
一般の葬儀社は気付いていないだろうが、遺族が求める「お別れ」「感謝」「家族の絆」の心を束ね、天の神様に、分かりやすい祈りの言葉で取り次ぐことができるのは、実はキリスト教の牧師だけである。
エンディング産業が「追善供養」から解放され、遺族のニーズに沿って変貌するカギを牧師が握っているのである。やがて時が来れば、エンディング産業は牧師の祈りで支えられるようになるだろう。
牧師の側も注意する点がある。葬儀において伝道を優先してはならない。確かに、十字架を掲げることも、福音を語ることも大切である。しかし、葬儀の場は、悲しみの中にある遺族に寄り添い、彼らの祈り心を支えることが求められているのである。
牧師が遺族に寄り添い、彼らの祈りを束ね、天の神様に取り次ぐなら、葬儀は慰めに満ちた時となり、葬儀の後には、遺族に福音を語る機会は何度でも訪れるに違いない。葬儀は日本宣教の扉を開けることになる。
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