終活という言葉が日本に定着し、さまざまな分野に展開されてきている。以前は、残された者に迷惑をかけないための終活が多かったが、最近は、最期まで元気に過ごすための終活が多くなっているように思う。
牧師の関わる終活は、聖書に示される「天国の希望」を指し示すことである。体が最期まで元気であることは望ましいが、たとえ弱くなっても「天国の希望」を握り、輝いてエンディングを迎えていただきたいものである。
先日、若い頃にキリスト教に触れたと言われる女性が癌(がん)に侵され、余命1カ月と宣告された。ご家族はキリスト教葬儀を希望されたが、牧師に伝手(つて)がなく、当社に事前相談を寄せられた。
こういった場合、依頼者は葬儀の相談をされるのだが、さまざまな不安を同時に抱えておられるのが常である。私は言葉を選びながら、生前にお見舞いに伺わせてほしい旨をお伝えした。葬儀社や僧侶にはできないが、牧師は生前から訪問できる可能性がある。
ご家族は私の申し出を喜んでくださったが、唐突であったためか、訪問を依頼されることはなかった。近隣であれば、頻繁に連絡を取りながら、折を見て立ち寄ることもある。
しかし、この時は、遠い関東地区からの依頼であったので、メールでご子息と葬儀相談をさせていただく中、祈りの言葉をさりげなく添えることしかできなかった。
やがて1カ月が過ぎた頃だった。ご子息より、余命1週間という知らせとともに、ご本人が「キリスト教に入信したい」と言われていることが突然知らされたのである。
もう間もなく召される方が、自分の意思で福音を求め、ご家族がそれを支えようとしている現場が目に浮かんだ。神様が備えてくださった未信者の飢え乾いた求めに、すぐにでも駆け付けたい思いがよぎった。
しかし、ご家族の今後のことを考えると、近隣の牧師に継続的に寄り添っていただくべきと思い直し、最善を備えてくださる主に祈りつつ、関東地区の連携牧師名簿から適任者を選ぶことにした。
私たちの働きを応援してくださる牧師は多いが、急速に働きを広げたこともあり、面識のない方がほとんどである。信頼できる関東地区のスタッフとも相談しながら、1人の牧師に訪問をお願いすることを決めた。
私はお電話を差し上げ、状況をお伝えし、訪問を依頼した。幸い入院されている病院をよくご存じで、教会のスタッフの方と連携して訪問できそうだとの良い返事をいただくことができた。
私たちの働きは、教会の宣教を後押しすることである。実際の宣教の現場は地域の牧師や教会の皆さんにお願いすることになる。できるだけのサポートをするのは当然だが、依頼者を紹介した後は、背後から祈ることが最大の役目になる。
関係者と共に祈る中、2日後に素晴らしい報告が届けられた。死を目前にした弱さの極致にある方だったが、牧師の訪問を待っていてくださった。そして、その場で、ご自分の意思で福音を受け入れ、信仰を告白され、洗礼を受けられたのである。
おそらく、その場に駆け付けたご家族と共に、天国の窓が開く経験をされたことだろう。死を目前にした絶望とも思える状況の中に、輝く大きな希望を見いだされたのである。
その日から実際に召されるまでの1週間、弱さのただ中で、天地の創造者に心を向けられた。日々、洗礼を受けたことを喜び、与えられた人生に感謝し、天国の希望を告白して過ごされたようである。
葬儀は、洗礼を授けた牧師が司式した。それまで祈りつつ備えてきたキリスト教葬儀社や関係者の見守る中、天国に凱旋された故人を偲び、神様に感謝する感動的な葬儀が執り行われた。
ご家族にとっては、大切な家族を失った悲しみの中にも、大きな慰めを得たエンディングであったことは言うまでもない。
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