「もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうにわたしの弟子です。そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします」(ヨハネ8:31、32)
国立国会図書館法の前文に「国立国会図書館は、真理がわれらを自由にするという確信に立って、憲法の誓約する日本の民主化と世界平和とに寄与することを使命として、ここに設立される」と書かれている。
この文章の中にある「真理がわれらを自由にする」という1節は、聖書の言葉の引用のようだが、国会図書館東京本館のホールに、日本語とギリシャ語で刻まれたことで、その由来によらず有名になった。
私は、自動車会社の研究所に長年勤務していたが、以前、私の上司がこの1節を用いて、私たちに「真理探究」の重要性を強調したことがあった。
仕事は将来エンジンの研究開発であったが、確かに新技術の探究には、この自然界を支配する現象の正しい理解が不可欠だった。正しい理解をした者だけが自由に技術開発ができるということを、上司は言いたかったのである。
このような上司に恵まれたおかげで、エンジン燃焼室や排気ガスの中で起こっている現象を随分と学ばされ、30年以上の経験の中で比較的深い知見を得たように思う。
しかし、退職する際、私の書類棚には、解析できていない意味不明のデータが山積みされていた。経験年数を重ねるほど、真理の探究どころか、理解できない現象は増え続けていたのだ。いつの日か解析できるだろうと安易に考え、データを保存してはいたが、結局そのまま会社を去ることになった。
この世界に満ちるものは神様の知恵によって造られたのだから、どのような自然現象であっても、人が完全に理解することはできない。経験が増すほど分からないことが増えるのは、当然のことかもしれない。
結局のところ、私の研究開発の成果は、被造物の中に見られる神様の知恵の深さと自分の未熟さを認めることだったように思う。おかげで、仕事を通して神様に頼ることを教えていただいた。
「真理はあなたがたを自由にします」という聖書の言葉の前文は、「もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうにわたしの弟子です。そして、あなたがたは真理を知り」となっている。
聖書の意味するところは、イエス・キリストの言葉を信じる者は、イエス・キリストの弟子となり、真理を知り、自由を得ることができるということである。
聖書の指し示す真理は、信仰により恵みによって知ることができるのであって、決して人の努力で得られるものではない。人はいつも真理を求め、探求するものだが、人の力でたどり着く結論は、真理からは程遠いものになる。
私は、会社を退職後、牧師になって多くの人の終末に寄り添うことになった。牧師としての経験に乏しい者が、どのように寄り添うべきかと戸惑うこともあるが、長年の企業における研究開発の成果は、私の心を自らの足りない経験ではなく、イエス・キリストに向かわせてくれる。
大切な家族を失い、悲しみの中にある遺族の前で、ただ神様に頼ることを心掛けている。「死」という避け得ない障壁を前に、自らの力では到底成し得ないことだが、故人と遺族をこよなく愛されるキリスト自身が、苦難の場を慰めの場に変えてくださることを知るのである。
「私たちにキリストの苦難があふれているように、慰めもまたキリストによってあふれているからです」(Ⅱコリント1:5)
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