ハリウッド映画が取り上げる永遠のテーマの1つに「家族(ファミリー)」がある。これは米国発祥で、西洋文化の浸透とともに世界へと拡散していった価値観といってもいい。いずれにせよ、「家族第一主義」を標榜(ひょうぼう)することは、彼らにとって「善」なのだ。この主張に反論する気はない。
しかし、最近「家族」という言葉に含まれる範囲が拡大し、さらに従来の「血縁関係という意味での家族」という根幹が揺らいでいることは、キリスト者としてきちんと認識すべきであろう。今回は、「家族」というテーマでハリウッド映画の変遷をひもといてみたい。
<注:本稿は「アイ・アム・サム」「ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー リミックス」「ワイルド・スピード アイスブレイク」のネタバレを含みますので、ご注意ください。>
トランプ大統領ではないが、「米国第一(アメリカ・ファースト)」に類する考え方に、「家族第一」がある。特にハリウッド映画は、この「家族」の大切さを家父長制と共にけん引する働きをなしてきた。
古くはフランク・キャプラの「素晴らしき哉、人生!」に代表されるクリスマス・ムービー。必ずハッピーエンドで、どんなダメパパも最後は家族と共に素晴らしいクリスマスを迎えることになる。
しばらくして、テレビドラマでは「大草原の小さな家」が大ヒットし、さまざまな困難に立ち向かう家長役のマイケル・ランドンは「世界のお父さん」となった。つまり、血のつながった親子こそ最も素晴らしいものである、という主張が主流となっていた。
時にはチャールズ・チャップリンの「キッド」に代表されるような、疑似親子を描いた映画も生まれた。しかしこれも、日常の触れ合いから生み出される親子関係をも含む「親子関係」「父子関係」を軸にしているという意味で、ハリウッドのみならず、米国が訴える「古き良きアメリカ」の価値観を後押ししたことになるだろう。
物語の展開は全く逆だが、ロバート・ベントンの「クレイマー・クレイマー」なども離婚によって引き裂かれる子どもの在り方を通して、むしろ「善なる価値」の大切さを、切ない展開で逆説的に際立たせていると言ってもいい。
1970年代から80年代にかけて、この「親子」「父子」を軸とした「ファミリー」という考え方は、ハリウッド映画の中心に「善なる価値」として君臨していた。それを最も分かりやすく、かつ壮大に描いて見せたのがフランシス・フォード・コッポラの「ゴッドファーザー」シリーズだろう。
ここでコッポラは「マフィア」という言葉を使わず、イタリア系移民の悲哀を共有する仲間、すなわち「ファミリー」と表現することに成功した。その中心にコルレオーネ家の家長たるヴィトー(マーロン・ブランド)、後にマイケル(アル・パチーノ)を据えたため、「家族」という言葉は、血縁ではなくとも志を同じくする者たちを含む言葉へ拡大解釈された。
90年代になっても、この流れは変化なかった。アクション映画やSFなどの中にも「泣かせ要素」として「家族的価値観」は顔を出した。例えば、決別していた親子が関係を修復したり、父子が対立していても土壇場で助け合うという展開が感動を呼ぶことになった。
しかし世紀が変わり、この価値観に果敢に挑戦する作品が生み出された。2001年に公開されたショーン・ペン主演の「アイ・アム・サム」である。これは、知的障害を持つ父親と彼の娘の成長を描いた物語である。
娘の成長につれ、子どもの養育が能力的に不可能になっていくため、養子縁組によって、「新たな両親」が娘を引き取る。しかし、それは血を分けた親子関係を断ち切ることを意味していた・・・という展開。
見る者に葛藤を強いるのは、「新たな両親」が娘に対して深い愛情を注いでいるということ。誰の目から見ても、娘にとってこの夫婦の養子となる方が幸せになると思わされることである。それは障害を持つ父親ですら感じることのできるものであった。
ネタバレになるが、「血縁」か「縁組」の議論は、「共に親となる」という落としどころを見いだす。つまり、互いに補完し合いながら、娘の親として生きることを選択するのである。
従来なら、最後は「血縁」が勝つことで、愛情深さは血縁にはかなわないとなる。しかし、この映画はそうはならない。血縁に克服しがたい問題があるとき、縁組であっても愛情を注ぐ者が「親となり得る」ことを描いている。
この点が従来の親子映画と決定的に異なる。父親、養育者、娘の三者が家族(ファミリー)となるが、その中心を養育者が担い、父親がこれに協力する、という「主客逆転現象」を良しとしているのである。
2017年、「アイ・アム・サム」からも15年以上たち、ハリウッドでの家族の描かれ方はさらに異なる展開をしている。本年ヒットした映画の中で、特にアクション映画2本を取り上げてみよう。
1つ目は「ワイルド・スピード アイスブレイク」。この「ワイルド・スピード」シリーズは、現在までに8本が作られているが、今までのアクションシリーズにない軌跡を描き、最新作も世界中で大ヒットしている。
最初は車大好きな走り屋たちの話であったのに、3作目までの成績が下降気味のため、仕切り直しが起こる。これによって4作目以降は右肩上がりの大ヒットを遂げていく。その要素として、派手なアクションや犯罪サスペンスを盛り込んだこともあるが、もう1つ「ファミリー」という概念を物語の軸に入れたことである。
4作目以降のいずれの作品も、大きなミッションへ共に向かう仲間を「ファミリー」と見なし、互いの必要を補いながらミッションを達成し、かつ友情(愛情含む)を育むというストーリーになっている。
その8作目、主人公は血縁の「家族」を見いだす。この「家族」が命の危険にさらされる。同時に「ファミリー」にも同じ危険が及ぶ。そして物語の帰結は、「家族」の命が失われても「ファミリー」の結束は守られる、というところに落ち着くのである。
親子関係を軸とした「家族」よりも、志を同じくする仲間によって構成される「ファミリー」に重きが置かれ、後者が前者をのみ込んでいく展開は、従来のハリウッド映画的価値観を知っている者からすると、「本当にこれでいいのか」と思わされる。
同じような問題をさらに際立たせているのが、大ヒットアクション映画「ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー リミックス」である。こちらは一見ハチャメチャなSF映画だが、芯はしっかりしている。
宇宙人に連れ去られた主人公(スター・ロード)が大人になり、居合わせたごろつき集団と宇宙を救うミッションに向かわざるを得なくなるという話。その過程で「ごろつき集団」が「家族(ファミリー)」と化す。
今回はその第2弾であった。物語は途中までまったく読めない。いきなり本当の父親が登場し、主人公に特別な力を授けたり、今までの償いをしたいということで、摩訶(まか)不思議な星に連れて行き、何でもかなう世界を提供したりする。ところが、実はこの父親が今回のラスボスであり、諸悪の根源という展開である。
ここで従来の映画であれば、父親を倒すということに主人公が逡巡(しゅんじゅん)するはずである。例えば名作「スター・ウォーズ」シリーズであれば、ルークは父ダース・ベイダーを倒さなければならないことに悲壮感を抱く。
しかし本作の主人公、およびその仲間たちには、この逡巡がまったくない。それどころか、「仲間を助け守るため」と一致団結し、仲間の父親を倒すことに奮闘する。しかもご丁寧に、血縁の父親はその奥底に邪悪なものを秘めており、育ての親、そして仲間たちは純粋で、献身的な愛を抱いているという、はっきりとした善悪の逆転が提示されている。
ここに至って、血縁を軸にした「家族」ではなく、血縁を排除しても仲間としての「家族」を守るべきだというメッセージが高らかに訴えられている。「素晴らしき哉、人生!」とは隔世の感がある。
ハリウッドは保守的価値観を提示しながらも、政治に関しては常にリベラリズムを標榜してきた。LGBT問題や人種差別、そして軍事力を背景にした対外政策など、多くの革新性を示してきた。
その中で、今まで手つかずであったのが、「良いとされる家族の在り方」であった。シングルマザー、ステップファーザー、虐待問題など、確かに社会の映し鏡のように映画が作られてきた。しかし、これらはいずれも小粒でいぶし銀的な社会派ドラマであった。
一方、「ワイルド・スピード」や「ガーディアン・オブ・ギャラクシー」のような大ヒットシリーズは、幅広い年齢層が見る作品であるため、むしろこちらの方が保守的な家族観を踏襲してもよさそうなものだ。しかし、昨今はそうではない。従来の価値観、その根幹が大きく揺らいでいる。
映画にはレイティング(年齢制限)が課せられている。両者はともにPG12(12歳までは親の認可が必要)であり、一般の映画として公開されていることになる。
米国の家族観が揺らぎ始め、その現実をエンタメ映画であっても反映させなければならない事態が起こっている、とするなら、私たちはCGやアクションの派手な部分ばかりでなく、こういった底流にある価値観の変容にまで目を配って、米国の文化事情を見ていかなければならないのではないだろうか。これはキリスト教的価値観にも通じる問題となり得るからである。
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