秩父(ちちぶ)と高崎のほぼ中間に位置する埼玉県と群馬県の県境。神流(かんな)川を挟んだ群馬県藤岡市鬼石(おにし)地区と埼玉県渡瀬(わたらせ)地区に350年ほど前、キリシタンが身を隠し、命がけで信仰を守っていたことをご存じだろうか。「渡瀬鬼石殉教者顕彰祭」(カトリック本庄・伊勢崎・高崎・藤岡・新町・富岡教会主催)が毎年5月に行われており、今年も連休初日となった3日、埼玉県、群馬県のカトリック教会の司祭、助祭の7人の他、県内外からカトリック教徒を中心に約200人が参加した。
「隠れキリシタン」と聞いてまず思い浮かぶのは、映画「沈黙」の舞台にもなった長崎県の五島列島だろう。多くのバテレンやキリシタンたちが迫害を受け、拷問の末に殉教した地として有名だ。しかし、北関東のこの小さな集落にもかつてキリシタンが実在していた。このことは、1658(明暦4)年に編集された『契利斬督記(きりすとき)』にも次のように記されている。
「伊奈半左衛門御代官所。三波川(さんばがわ)村、渡瀬村、鬼名村、中カツ原村、コノ四ヶ所ヨリ、明暦二申年五月マデ、宗門一四、五人モ出デ申シ候」
この史料は当時、キリシタン弾圧の指揮をとっていた井上筑後守政重(『沈黙』にも登場する)の手記など、禁教の記録をまとめたもので、捕らえられたキリシタンを出身地別に整理した「吉利支丹出デ申ス国所ノ覚」の中に記されている。
顕彰祭が行われた河原は、現地の人々によって「キリシタンが処刑された場所」として語り継がれてきた。爽やかな風が吹き、新緑が映える里山と、そこを縫うように流れる渓流。このような美しい場所で先人たちが命がけで信仰を守り抜くため苦しみを受けていたのかと考えるだけで胸が痛くなる。
ミサの司式をした國本俊一司祭は、次のように話した。
「かつて『キリシタン』と呼ばれた人々が、なぜ十字架上のキリストを命がけで信じることができたのだろうか。それは、自分たちが信じているものに確信があったからだと思う。迫害は大きな苦痛を伴うが、それでも彼らは信仰を守り抜いた。人間を超える力を信じることで、安堵(あんど)感を得ていたのではないか。一方、現代の私たちを顧みると、信仰や祈りよりも物質的なものを優先させがちだ。しかし、信仰とはもっと尊いもの。私たちも先人の祈りや信仰を見習い、受け継いでいきたい」
同地域には多くの外国籍の人々が住んでいることから、会場ではさまざまな言語が飛び交った。晴天の河原で子どもたちのダンスや歌などを楽しみながら昼食をとった後、参加者が一列になり、日本語、英語、ポルトガル語などによるロザリオ巡礼を行い、「渡瀬鬼石キリシタン之碑」へ向かった。
同石碑の前で顕彰祭が行われ、皆で賛美と祈りをささげた。石碑には、「わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある」(マタイ5:11~12)と刻まれていた。
顕彰祭の後、希望者のみ、この地に残るキリシタン遺物を見学するツアーを行った。この地には14、5人のキリシタンがいたと先の史料には書かれていたが、その多くは、現在の東京都文京区にあったとされる「切支丹屋敷」に幽閉され、牢死(ろうし)したとされている。
『北関東の武州渡瀬と上州鬼石のキリシタンたち』(渡瀬キリシタン殉教者顕彰会編集発行)によると、幕府はキリシタンを根絶するため、転んだ(棄教した)キリシタンを村々に帰した後も、その子孫が再びキリシタンにならないよう、数代にわたって監視していたという。
現在もなおキリシタンの末裔(まつえい)がこの地に住んでいるが、その多くはキリスト教を信仰していない。ツアーの案内をした武井利泰さんは、「弾圧された直後、苦しみを受けた親族を思うと、信仰を継承するには至らなかったのでは」と語る。
牢死したキリシタンの遺骨は地元の寺が引き取り、墓石の下に埋めた。この地区のキリシタン墓石には1つの大きな特徴がある。家のような形をした石碑の屋根の部分は、真横から見ると細長く、正面から見ると古民家の屋根のような台形をしている。真横には十字架が刻まれていたり、家の窓の部分には十字架が格子のような形で残っているものもあった。
今回のツアー中、殉教者の子孫である木村家を訪問した。墓を寺から家の敷地内に移し、代々の子孫と共に葬っている。木村家の墓には、はっきりとキリシタンと分かる墓石が3基あり、群馬大学山田助教授(当時)が研究のために訪れた際、墓石の中から木彫りのマリア観音が発見された。大人の手のひらに載るほど小さなものだが、幕府からの迫害やさまざまな苦しみを、これを握りながら必死に耐えていたのではないだろうか。
ツアーは1時間以上にわたり、参加したシスターや信徒たちは、殉教したキリシタンたちに思いをはせ、帰路についた。