イエス様の従順と神様の喜び
キリスト教信仰は、イエス・キリストという確かな対象から始まります。そういう意味から、イエス・キリストにつき従う者をキリスト者と呼び、私たちの信仰はイエス様がどんな方かを知るところから出発します。イエス様の人生と働きを覗(のぞ)き見ると、イエス様こそ堅固な信仰のモデルであることを知るようになります。それに加え、この世でキリストに従う人生がいかに喜ばしく、感謝なことかを知るようになります。
イエス様の人生と働きは、一言で言うと「神様からの使命を喜びと楽しさをもって行った人生」でした。もちろん、その道は苦難の道であり、痛みのある道でしたが、イエス様は強制されて、不満を述べながら、仕方なしに従順された訳ではありませんでした。ご自分の民を救うための喜びと楽しさをもって神様が下さった使命の道を歩まれました。神様を喜びながら生きるのを唯一の楽しみとされました。よって、まことのキリスト者になろうと思うなら、一生、神様だけで喜び、神様の下さった使命ならばどんなことでも喜んで従う覚悟がなければなりません。
キリスト者の喜びと世の中の喜びとは本質的に異なります。世の中の喜びは主に条件によって決まります。人間的な目で見て、美しさと良い結果が保障されたものでないといけません。過程と結果の両方ともが満足行くものであるときに喜ぶことができ、もし過程が良くなければ、結果だけでも良くなければなりません。
しかし、キリスト者の喜びの条件はまったく異なります。過程が良くなく、結果が良くないように見えても、喜ぶことができます。なぜなら、キリスト者は神様だけで喜べる存在だからです。キリスト者のまことの喜びは神様の民として生きていくというところから出て来ます。私たちが神様の民になれば、あとは父なる神様が責任をとってくださるという信仰をもって生きるので、どんな状況でも喜べるようになります。
この世的な目で見つめるとき、イエス様が歩まれた道は完全な失敗で終わったかのように見えるかもしれません。しかし、十字架の死に至るまで神様の御旨に喜んで従おうとするイエス様の思いを読み取るとき、私たちはまことの喜びが何かを悟るようになります。神様の民になるということは、もはやこれ以上、自分の有益と楽しみのために生きていかないという信仰の告白を生き方において示すことを意味します。イエス様は、神様の民として神様の喜びになるとは何なのかを身をもって示してくださった方です。
では、イエス様はどんな御姿でこの世に来られたのでしょうか。また、どうやって神様からの使命を果たされたのでしょうか。
愛のために苦難を選ばれたイエス様
「彼は主の前に若枝のように芽ばえ、砂漠の地から出る根のように育った。彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない」(イザヤ53:2)
私たちが戦争のような大事を準備しなければならないなら、その事のために役に立ちそうなものを用意し、戦闘態勢を整えるのが当然です。準備すればするほど、より効果的に対応できるからです。しかし、イエス様は風でも吹いたらすぐにでも折れ曲がり、足で踏まれたら簡単に潰されるような弱い若枝のような姿で、そして乾いた地に根を出した茎のようなみすぼらしい姿で来られました。
一般の人々が期待していたように華麗な宮殿で、すべての人々の注目を浴びて生まれたわけではありません。ダビデの血筋の平凡な家庭に、貧しきナザレの処女マリヤの体に聖霊によって宿り、ベツレヘムのみすぼらしい馬小屋の片隅で生まれました。私たちと同じ肉体を持って、この世に来られました。
神であるイエス様が人間として来られたのは、徹底的な自己否定から来る服従(ピリピ2:8)を通して可能なことでした。どこの誰が、罪を犯していないのに、惨めな姿で十字架に架けられたいと願うでしょうか。しかし、イエス様は神様の喜びとなるために自ら人間の体を持つほどにまで低くなって神様の御旨に従いました。人間として来られ、苦難を受ける覚悟を決めました。それで、激しい苦難の中でも、ただエホバ(ヤーウェ)の神様だけに喜びをもって仕えることができました。どんな苦しみも私たちの喜びを奪えない理由がここにあります。
「エホバ(ヤーウェ)を喜びなさい」という主題は、新・旧約聖書の中で反復される大変重要な主題であり、単純に感情の重要性を強調するために使われた言葉ではありません。マルコの福音書1章11節において、イエス様は神様から「わたしはあなたを喜ぶ」という声を聞きました。バプテスマ(浸礼)のヨハネから洗礼(浸礼)を受けるとき、突然天が開かれ、このような声が聞こえたのです。「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ」。つまり、神様が直接、イエス様がどんな方かを世の中に明らかにされたものと理解できます。
また、「わたしの愛する子」という言葉で、イエス様が神の御子、すなわちメシヤ(詩篇2:7)であることを明らかにされ、「あなたを喜ぶ」とおっしゃったのは、御子が将来苦しみを受ける神のしもべ(イザヤ52:13)となり、十字架の苦しみを受ける運命を持った「苦しみを受けるエホバ(ヤーウェ)のしもべ」になるだろうという意味で用いられた表現です。
当時において、メシヤが苦しみを受けるだろうということは、まったく予想されていませんでした。3年つき従った弟子たちがイエス様を裏切って去っていった理由もここにありました。それほどに、イエス様が歩まれた道は、神様の御旨への徹底した従順と服従なしには不可能な道でした。しかし、イエス様は誰も予想していなかった、その新しい道を、純度100パーセントの従順をもって歩むことで神様の喜びとなりました。
それで、「エホバ(ヤーウェ)を喜びなさい」ということの意味は、神様の御旨に完全に従う人生を生きなさいということです。神様の絶対主権を認める人生こそ、救いを与えられた神様を喜ばせる道です。救われた民として神様の御旨が何なのか興味がなかったり、神様の御旨を行うのに関心がなかったりするのは、一言で救いをないがしろにしている態度です。救われた者ならば、救いにふさわしい人生、つまり信仰の人生で応えるのが当然です。なぜなら、それが神様が私たちに救いを与えられた理由だからです。
では、罪のないイエス様が人間の体で来られた理由は何でしょうか。それは人間が経験するすべての弱さを、身をもって体験するためでした。イエス様が直接苦難を受けられ、試みに遭われたので、人間の痛みと試みをすべて知り、ともに感じ、すべての試みから私たちを助けることができるのです。
「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです」(ヘブル4:15)
イエス様はこの世に来られ、私たちが遭うすべての痛みと試みを直接体験されました。空腹に耐え、時には泣いたりもしました。十字架に架けられるまで、さまざまな蔑(さげす)みと恥、嘲(あざけ)りを受けられました。私たちが受ける苦難と痛みの意味、悲しみの深さ、死の恐怖を身をもって感じられました。私たちのすべてを共感されました。
イエス様がこの世に来られてミニストリーをなされたとき、イエス様のそばにはこの世で疎外され、問題の中を生きていた多くの人々が集まって来ました。イエス様がご覧になった彼らの姿は、まるで羊飼いを失ってしまった羊たちが猛獣に追い掛け回されて苦労し、食べ物もなく、さまよい続けているようでした。それで彼らをご覧になるたびに、かわいそうに思われました。
「また、群衆を見て、羊飼いのない羊のように弱り果てて倒れている彼らをかわいそうに思われた」(マタイ9:36)
「かわいそうに思われた」というのは、共感したということです。イエス様は民の痛みと悲しみを共に感じておられました。イエス様が十字架から顔を背けることができなかった決定的理由は、世の中でさまよいながら苦しむ民をかわいそうに思われたからです。十字架を通して彼らの苦しみを共に感じたいと願われたのです。これがまさに福音です。
イエス様は、今この時間も私たちの痛みを共に感じておられます。私たちと共に泣いておられます。私たちと共に夜眠れずに悩んでおられます。偉大なる神の御子イエス様が、弱さと咎と罪で汚れている私たちと同じように感じておられます。私たちの罪が大きすぎてどうしたらいいか隠れて悩みながら恐れおののいているとき、イエス様は十字架の上で私たちの罪のとてつもない重さを直接感じながら呻き声を上げておられます。
1907年にピョンヤン大リバイバルが起きた頃、当時の教会を代表する指導者だったギル・ソンジュ牧師に関する有名な逸話があります。ギル・ソンジュ牧師は神様の御言葉を聞いてすべての人々の前に立ち、自分はアカンのような者であり、死んだ友人に任せられた遺産の一部を盗んだと告白しました。自分の罪を神様の御前で包み隠さず悔い改めました。礼拝時間にギル・ソンジュ牧師の悔い改めを聞いた人々は良心に導かれるまま、我も我もと罪を悔い改め始め、自分たちの誤った行いを正しました。まさにその時に私たちの民族に大リバイバルが与えられました。
イエス様は、誰でもミスすることがあり、誰でも過ちを犯すことがあるということを知っておられます。イエス様は私たちの孤独と絶望をすべて知っておられます。イエス様のように孤独な人生を送った人がいるでしょうか。イエス様は神の御子であるけれど肉体をもって生まれ、母親マリヤ以外は誰一人イエス様が本当は誰なのかよく知りませんでした。
30歳になるまで、常に寂しく黙々と十字架の道に備えられました。イエス様がやっと公生涯を始められたときは、イエス様の兄弟や親戚までもがやってきてイエス様を気が狂っている者のように扱い、イエス様を理解してくれませんでした。それだけでなく、イエス様のミニストリーを邪魔したりもしました。イエス様は家族にさえも認められない寂しさに耐えながら、神様から与えられた使命を果たしていきました。
「イエスの身内の者たちが聞いて、イエスを連れ戻しに出て来た。『気が狂ったのだ』と言う人たちがいたからである」(マルコ3:21)
しかし、このようなイエス様の寂しさは、人類の救いのために徹底的に計画された神様のシナリオでした。イエス様は死に至るまで従われたことで、神様のシナリオを喜びをもって完成されました。このようにイエス様は自分の思いよりも自分を送られた神様の御旨に、より大きな価値を認めました。そして、その価値が自分の人生において花を咲かすことができるよう努めました。このようにすることで、イエス様は神様のまことの喜びとなることができました。
(イ・ヨンフン著『まことの喜び』より)
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【書籍紹介】
李永勲(イ・ヨンフン)著『まことの喜び』 2015年5月23日発行 定価1500円+税
苦難の中でも喜べ 思い煩いはこの世に属することである
イエス様は十字架を背負っていくその瞬間も喜んでおられました。肉が裂ける苦しみと死を前にしても、淡々とそれを受け入れ、後悔されませんでした。私たちをあまりにも愛しておられたからです。喜びの霊性とは、そんなイエス様に従っていくことです。イエス様だけで喜び、イエス様だけで満足することを知る霊性です。神様はイエス様のことを指し、神の御旨に従う息子という意味を込めて「これは、わたしの愛する子」(マタイ3:17)と呼びました。すなわち、ただ主お一人だけで喜ぶ人生の姿勢こそが、神の民がこの世で勝利できる秘訣だということです。
(イ・ヨンフン著『まことの喜び』プロローグより)
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