「彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった」(イザヤ53:3)
イエス様の一生は、苦難の一生でした。生まれたときはヘロデ王が殺そうとしたので、エジプトに2年間ほど身を隠さなければなりませんでした。その後ナザレに来て、父親ヨセフを手伝って大工の仕事を学びました。ヨセフはイエス様が12歳の時以後に登場しないことから、早死にしたものと思われます。イエス様はそうして、長男として貧しい家庭を支えるという責任を負わなければなりませんでした。
公生涯を始めた後は、当時の宗教指導者だった祭司、書記官、パリサイ人たちから絶え間ないチャレンジと迫害を受けられました。そして結局、彼らによってさまざまな辱めと非難を受けつつ、十字架の苦しみに遭いました。
その姿がどれほど悲惨だったか、「顔をそむけるほどさげすまれ」(イザヤ53:3)と記録されています。「顔をそむける」という表現は、イスラエルの民がツァラアトの患者を指すときに使う言葉です。当時、ツァラアトの患者は大変な罪人だとされていたため、いつも人々の前では顔を隠し、石を投げてもそれが当たらないほど遠く離れていなければなりませんでした。
イエス様は私たちのためにツァラアトの患者のような扱いまで受けられた方です。聖なる神の御子が、です。
中国の英字新聞「チャイナ・デイリー」に、貴州省に住むインリーという女性が身を挺して熊蜂の群れから2歳の息子を救った記事が載ったことがあります。息子と家周辺の野原を散策していたインリーは、うっかり熊蜂の巣に触れてしまって、数百匹の熊蜂から攻撃を受け、意識朦朧(もうろう)の状態に陥ってしまいました。幸運なことに隣人に発見され、彼女の体に消火器を噴射して体全体を覆った熊蜂の群れを追い払うことができました。
ところが、驚くべきことに、彼女の体の下から赤ちゃんの泣き声が漏れてきました。彼女は30分以上、数百匹の熊蜂に刺されながらも、自分の全身を使って息子を守っていたのです。そのおかげで彼女の息子は助かりました。インリーは全身を熊蜂に刺されたため、息を荒げながらも息子の生死を尋ね、「大丈夫だ」という話を聞いてから病院に移される途中、息を引き取りました。
夫のワンさんは、「朝、仕事に出ている間に愛する妻を失ってしまった。息子を本当に大事にしていたけれど、結局、息子の代わりに自分の命を捨てた」と言いながら涙を流しました。
母親の愛が、息子を助けるために自らを犠牲にさせたのです。これこそが、イエス・キリストの十字架の原理です。私たちを生かすために十字架でご自分を犠牲になさった、その愛の原理です。
「まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと」(イザヤ53:4)
イエス様が十字架にかけられたとき、通りすがりの人々はイエス様に向かって、「もし、神の子なら、自分を救ってみろ。十字架から降りて来い」(マタイ27:40)とあざけりました。でも、イエス様はなぜその時十字架から降りてこなかったのでしょうか。それは、十字架を背負うことこそがイエス様の使命だったからです。
イエス様は結果よりも過程をより重要視し、神様の御旨に従うことで自分の信仰を確定させました。そして、神様に対する完全な信仰の過程が作り出したのが贖(あがな)いの十字架です。イエス様は私たちを救うために十字架のすべての苦しみを最後まで耐え抜いたのです。
「キリストは、人としてこの世におられたとき、自分を死から救うことのできる方に向かって、大きな叫び声と涙とをもって祈りと願いをささげ、そしてその敬虔のゆえに聞き入れられました」(へブル5:7)
神様は、イエス様が十字架へと進み行く徹底的な従順を喜ばれました。そして、その結果としてイエス様を高く上げ、すべての名にまさる名を与え、世の中のすべてのひざをイエス様のひざの前にかがめさせました(ピリピ2:9、10)。イエス様はご自分を犠牲にされることで、私たちの永遠の大祭司となられました。
ですから、今や苦難を解釈する私たちの視点も変えられなくてはなりません。神様から尊く用いられた人物たちはみな一貫して、苦難と逆境を乗り越えた人たちです。苦難を乗り越えずに神様から用いられた人はほとんどいません。苦難は私たちを変化させ、成熟させ、神様に用いられる人物へと備えさせます。
ある芸術家がいました。彼は音楽一家の末息子として生まれましたが、10歳になる前に孤児となりました。彼は18歳の時に学校を卒業して、ヴァイマル宮廷楽団にてバイオリン奏者として働きつつ、アルンシュタットのある教会でオルガニストとして働いたりもしました。そんな中、結婚して家庭を持ったのですが、結婚してから13年で妻と死別し、再婚しました。再婚後、彼はなんと20人の子をもうけたのですが、そのうちの10人は幼いうちに亡くなりました。
彼は晩年において視力を失い、脳溢血で苦労して最後は静かに息を引き取りました。彼の人生を振り返るとき、苦難と逆境に覆われた暗鬱(あんうつ)な時間の連続でしたが、それにもかかわらず、彼はそれらすべての逆境を乗り越え、絶え間なく不朽の名曲を書き上げました。彼はいつも作品のあたまには「キリストの御名で」(I.N.J.: In Nominee Jesu)と書き、終わりには「ただ神に栄光」(Soli Deo Gloria)と書きました。
この人こそ、音楽の父と呼ばれるヨハン・セバスチャン・バッハ(Johann Sebastian Bach)です。多くの人々が偉大なる音楽家バッハを知っていますが、彼が苦難の道を歩んだということはあまり知りません。彼は大変な苦難の中において神の栄光を見た人です。すべての芸術はバッハから始まるという言葉が生まれるほど、彼の作品は後代の多くの音楽家たちに大きな影響を与えました。
しかし、バッハが生きていた当時、人々は彼に注目しませんでした。彼が死んだとき、子どもたちに残した遺産といえば、古ぼけた楽譜と、彼が生前残した負債だけでした。
バッハが死んで100年ほどたってから、やっと偉大な音楽家として認められ始めました。自分が告白した通り、すべての栄光を自分ではなく神様だけが受けられるようにしたのです。
バッハは、生前は人々に認められなかった貧しい音楽家でしたが、最後の瞬間まで自分の信仰を捨てず、最後まで全力を尽くして神様の栄光のために生きました。気力が尽きるまで全力を出し切って作曲を行い、その結果、音楽家の中では一番多くの楽譜を後代に伝えることができました。神様に栄光を帰す人生を生きるというのはこういうことです。
キリスト者は苦難の時こそ挫折せず、希望を持たなければなりません。暗闇を暗闇だけとして見ず、暗闇の中に輝く星を見なければなりません。そして、真っ暗な闇の中に訪れるだろう燦々(さんさん)と輝く朝を見なければなりません。神様はこのように苦難を通して私たちの信仰を鍛えられます。苦難は私たちにとって神様のそばへと近づく架け橋となります。
聖アウグスティヌスは彼の不朽の名著『神の国』(The City of God)において次のように言っています。
「苦痛というのは同じである。誰にでも苦痛はあり、苦痛は同じものだが、苦痛を味わう人は同じではない。悪人は苦痛の中で神様を誹(そし)り、不満を述べ、冒涜(ぼうとく)するが、善人は苦難を通して神様を探し、神様を知り、究極においては神様を賛美する。どんな態度で苦難を受けるかにより結果が変わり、苦難の意味も変わるのである」
苦難の中で絶望し、人生を諦めた人にとってその苦難は呪いですが、苦難の意味を発見した人にとっては素晴らしい祝福となります。それでマルティン・ルターもまた、「苦難は祝福をもたらす近道である」と言いました。私たちがイエス・キリストの中にいることを信じるなら、苦難の意味も変わらなければなりません。苦難に対する私たちの視点も変わらなければなりません。苦難は呪いではありません。苦難は、変装した祝福です。苦難を祝福の前奏曲だと見なさなければなりません。
「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました」(詩篇119:71)
信仰生活のせいで受ける迫害や苦難があるかもしれません。しかし、落胆せずに耐えなさいというのが聖書の教えです。主の仕事や教会の仕事をしていると、時には損をしたり、苦難がやって来たりもします。このような苦難を必要のないものと考えず、神様の善き御業がなされるための価値あるものと信じ、苦難を乗り越えなければなりません。
時にははっきりした理由もなく、悪いこともしなかったのに苦難に遭うとしても、善き神様を思いながら耐え抜かなくてはなりません。全知全能なる神様はすでに私たちが苦難の中にいることを知っておられるから、美しく、善き方向へと導いてくださるからです。神様の子どもには必ず美しい結果がついてきます。
17世紀の清教徒の巨匠トーマス・ワトソン(Thomas Watson)は、「富を失っても、何も失ってはいない。命を失えば、少し失っている。しかしイエス様を失えば、すべて失ったのである」と言いました。私たちは苦難がやって来るとき、キリストの苦難の十字架を考えながら、苦難についてもう1度深く振り返ってみなくてはなりません。
苦難の十字架があったから復活の栄光があったように、最後まで主と主の栄光を仰ぎ見ながら信仰で耐え抜かなくてはなりません。苦難の背後で働かれる主に目を向けなければなりません。苦難を耐え忍びながら進むとき、私たちの善き神様はその苦難を通して、私たちを価値ある報いと、美しい冠で祝福してくださいます。苦難を通して変えられ、成熟し、主の目的を果たす聖なる神の人とならなければなりません。
(イ・ヨンフン著『まことの喜び』より)
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【書籍紹介】
李永勲(イ・ヨンフン)著『まことの喜び』 2015年5月23日発行 定価1500円+税
苦難の中でも喜べ 思い煩いはこの世に属することである
イエス様は十字架を背負っていくその瞬間も喜んでおられました。肉が裂ける苦しみと死を前にしても、淡々とそれを受け入れ、後悔されませんでした。私たちをあまりにも愛しておられたからです。喜びの霊性とは、そんなイエス様に従っていくことです。イエス様だけで喜び、イエス様だけで満足することを知る霊性です。神様はイエス様のことを指し、神の御旨に従う息子という意味を込めて「これは、わたしの愛する子」(マタイ3:17)と呼びました。すなわち、ただ主お一人だけで喜ぶ人生の姿勢こそが、神の民がこの世で勝利できる秘訣だということです。
(イ・ヨンフン著『まことの喜び』プロローグより)
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