「しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた」(イザヤ53:5)
主の頭には茨の冠が被せられ、両手と両足は十字架に釘づけられ、わき腹は槍で刺し通されました。そして、鞭に打たれた全身は血だらけでした。当時においてローマ兵士の鞭は、牛の皮を乾かして作ったもので、先端には鋭い獣の骨や鉄の欠片(かけら)が付いている悪名高き刑罰道具でした。それを振り回すたびに全身から血が流れ、肉片が削がれました。
イエス様は裸にされてピラトの前で鞭打たれました。それにとどまらず、十字架を背負っていくときも数え切れないくらいに鞭打たれ、イエス様の歩まれたゴルゴダの丘の道は血で染められました。そして、イエス様は十字架にかけられました。
十字架刑は最悪の苦痛を伴う刑罰です。頭と胃腸の動脈が破裂して大変な頭痛が起こり、全身に起きるけいれんは傷口をさらに広げるため、死ぬまでに何度も死を体験してから、やっと最後に血と水をすべて流して、気力を消耗して死を迎えることになるのです。
午前9時から午後3時までの6時間の間、十字架にかけられて水と血をすべて流されたイエス様は、焼けつくような渇きゆえに、「わたしは渇く」(ヨハネ19:28)とおっしゃられ、「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」(マルコ15:34)と泣き叫んだりもしました。
そして、「父よ。わが霊を御手にゆだねます」(ルカ23:46)とおっしゃられながら息を引き取られました。イエス様は人間と同じように亡くなられました。死ぬ必要のない創造主が罪人のように亡くなりました。
なぜ神の御子であるイエス様が苦しい十字架の刑罰を受けなければならなかったのでしょうか。それは罪人である私たちが受けるべき刑罰を代わりに受けてくださるためでした。
「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず」(ローマ3:23)
罪人には刑罰が与えられます。刑罰は苦痛を伴います。もし私たちが罪の代価を全部受けるなら、神様が与えられる恐ろしい刑罰を免れることはできず、その刑罰には永遠の地獄の苦痛が伴います。ところが、その刑罰と地獄の苦しみをイエス様が代わりに受けてくださったのです。しかし、この事実を信じない者たちには、神様の恵みは臨みません。
アメリカの第7代大統領、アンドリュー・ジャクソン(Andrew Jackson)が大統領だった時代にあったことです。ジョージ・ウィルソンという人が郵便列車から政府の収入印紙を盗もうとして、郵便物を守っていた人を殺してしまいました。この事件でジョージ・ウィルソンは逮捕され、死刑を言い渡されました。
しかし、大統領は彼に公式の恩赦を発しました。ところが、ジョージ・ウィルソンは自分に与えられた恩赦を拒否したのです。この問題は最高裁判所にまで持ち込まれ、ついに主判事のジョン・マーシャル(John Marshall)が有名な判決を下しました。
「赦免状は単なる紙きれにすぎないが、その価値は受け入れる人によって決まる。もし恩赦を拒否するなら、その人は赦(ゆる)されることもない。ジョージ・ウィルソンは恩赦を拒否した。私たちは、彼がなぜそのようにしたか理解できないが、彼はそのようにした。それゆえ、ジョージ・ウィルソンは死刑にならなければならない」
ジョージ・ウィルソンは確かに赦されたにもかかわらず、その赦しを拒否したがために結局死刑となってしまいました。ところが、罪を赦されてもその赦しを拒否したことで死刑になったジョージ・ウィルソンよりも、もっと悲惨な人生を生きる人たちがいます。罪を赦すという赦免状をもらって自由と解放を得たけれど、依然として罪人のように罪に定められ、そしりを受けながら生きる人々。彼らこそ、イエス様のとてつもない贖(あがな)いの力を完全に信じることができない人々です。
イザヤ53章4節から6節までには、「私たち」という言葉がなんと9回も出てくるのを見ることができます。「主が受けられた苦しみは、私たちの罪と咎ゆえです」という告白が、私たちの告白とならなければなりません。
「私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた」(イザヤ53:6)
聖書は、なぜ私たちを「羊」だと表現しているのでしょうか。羊はひどい近視だということで有名です。それで自分の食べる草がどこにあるか探すのが苦手です。目の前にあるものを全部食べた後、草がある場所に自らたどり着く力がないといわれています。
それだけでなく、羊には自分を防御する力もありません。大部分の草食動物は、猛獣の攻撃から自分を守るための防御手段を1つは持っています。角があるとか、それとも後ろ足でのキックが強いとか、または走るのが速いとかいうのがあります。しかし、羊は羊飼いの導きと助けがなければ、命を保つことができません。
それなのに、このような羊が「おのおの、自分かってな道に向かって行った」とあります。羊飼いが導く正しい道を行かず、自分の考えと欲に従って誤った道を行ってしまったのです。
罪と咎というのは、まさに羊飼いの導きに従わずにおのおの自分かってな道に向かっている私たちの姿を指します。私たちは物心のついていない羊のように、自分かってに罪を犯し、欲に従って放蕩な生活を送りました。ところが、神様は私たちの罪を私たちではなくイエス様に背負わせました。これこそが「贖い」ということの意味です。
実に主は私のような、取るに足りない、神様に逆らった虫のような者の代わりに鞭打たれ、茨の冠をかぶせられ、手と足に釘打たれるという酷い十字架の刑罰を受けられたのです。1人の命が全世界よりも尊いといわれますが、70億全人類の命を合わせたよりも尊いイエス様が、私たちの代わりに亡くなられました。神の御子が私たちの代わりに苦しまれました。
「しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます」(ローマ5:8)
イエス様が十字架の苦しみを受けられたことで、私たちには素晴らしい祝福が臨みました。罪の赦しの祝福が臨みました。彼への懲らしめによって私たちに平安がもたらされ、鞭打たれて血を流されたことで、私たちはすべての病を癒やされ、自由になりました(イザヤ53:5)。イエス様以外に人類を罪と病と心の不安から自由にされる方はいません。これこそが、イエス様だけが私たちの唯一の希望である理由です。
テノールのベー・チェチョルさんは、ヨーロッパと日本で称賛を浴びていた音楽家でした。アジアで100年に1度の逸材だとの賛辞も受けました。しかし、2005年、ドイツのザールブリュッケン歌劇場でテノール・ソリストとして活躍していたときに甲状腺がんが発見され、ドイツのマインツ大学病院にて8時間に及ぶ大手術を受けることとなりました。
ところが、声帯に付いていたガン細胞を除去する過程において、声帯の神経が3センチほど失われてしまいました。そのせいで、彼は手術後は喉から息が漏れる音をやっと出すことしかできませんでした。歌はおろか、意思疎通も不可能でした。
後になって少しずつ言葉を発することはできるようになりましたが、周りに少し騒音があると聞き取れないような小さな声にすぎませんでした。音楽家の命である声を完全に失ってしまったのです。
ベー・チェチョルさんは、嘆きと涙をもってイエス様に頼りました。彼は幼い頃から信仰生活を送っていましたが、外国で活動するようになってからは主日を守ることにおろそかになり、結局神様が下さった声を、神様の栄光のためではなく世の中で歌うことにばかり使ったそうです。
声を失ってしまった後でベー・チェチョルさんが最初にしたのは、神様よりも世の中を優先していた自分の姿を悔い改めることでした。そして、歌うことのできる声を再び下さるなら、まず神様を賛美しますと祈りました。
ベー・チェチョルさんは、日本人音楽プロデューサー輪島東太郎氏の助けにより、2006年、甲状腺軟骨形成術の創案者である一色信彦京都大学教授に声帯手術を受けることとなります。手術が終わった後、医者から歌を歌ってみてくださいと言われたとき、ベー・チェチョルさんは神様に最初の歌をささげると祈ったことを思い出しました。彼は手術台に寝たまま、韓国聖歌79番を歌い始めました。
「輝く日を仰ぐとき」
輝く日を仰ぐとき 月星ながむるとき
雷鳴り渡るとき まことの御神を思う
我が魂いざたたえよ 大いなる御神を
我が魂いざたたえよ 大いなる御神を
日本のNHK放送は、2008年に韓流スターのベー・チェチョルさんが手術台に寝たまま賛美する姿を収めたドキュメンタリーを放映しました。主が彼の祈りを聞き、声帯復元手術を通して声を取り戻すようにしてくださったのです。イエス様が鞭打たれたことで、ベー・チェチョルさんは癒やされました。絶望の中で泣き叫ぶ彼の祈りを聞かれたイエス様が直接癒やしてくださったのです。日本のメディアは、彼の復帰を奇跡だと表現しました。
イエス様の十字架は、神の民を罪と死が支配する世の中から救うための、神様の救いのシナリオです。イエス様の十字架は贖いの十字架です。それを信じる者には、神様の力が臨みます。神様の力が臨めば、死の勢力が力を失います。このように、イエス様の十字架はすべてのキリスト者の救いの岩、苦しむときの大きな力となります。
しかし、十字架のシナリオはイエス様の従順を通して完成されました。イエス様の従順は、送ってくださった方の意思を徹底的にはかり知るところから始まります。私たちもまた、信仰の見本であるイエス様の十字架をむなしいものと考えてはなりません。
私たちがイエス様の十字架をむなしいものとしない方法は、この地に来られて毎日毎日ご自分を砕き、十字架を背負いつつ従うことを決心されたイエス様の心を抱くことです。今日、私たちはイエス様の贖いの死ばかりを強調し、その道を私たちも歩まなくてはならないというところにはあまり同意しないようです。しかし、イエス様の贖いの恵みは、イエス様の心を抱き、イエス様についていくことに決めた人々に与えられる恵みの贈り物だということを忘れてはなりません。
(イ・ヨンフン著『まことの喜び』より)
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【書籍紹介】
李永勲(イ・ヨンフン)著『まことの喜び』 2015年5月23日発行 定価1500円+税
苦難の中でも喜べ 思い煩いはこの世に属することである
イエス様は十字架を背負っていくその瞬間も喜んでおられました。肉が裂ける苦しみと死を前にしても、淡々とそれを受け入れ、後悔されませんでした。私たちをあまりにも愛しておられたからです。喜びの霊性とは、そんなイエス様に従っていくことです。イエス様だけで喜び、イエス様だけで満足することを知る霊性です。神様はイエス様のことを指し、神の御旨に従う息子という意味を込めて「これは、わたしの愛する子」(マタイ3:17)と呼びました。すなわち、ただ主お一人だけで喜ぶ人生の姿勢こそが、神の民がこの世で勝利できる秘訣だということです。
(イ・ヨンフン著『まことの喜び』プロローグより)
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