発生から17日で22年目を迎える阪神・淡路大震災。長い年月が過ぎたようにも感じるが、愛する家族を亡くした遺族にとっては、今もあの日から時間は進んでいない。
インターネットも携帯電話も普及していなかった22年前、被災地支援はどのように行われたのだろうか。日本国際飢餓対策機構(JIFH)の清家弘久氏に話を聞いた。
1995年1月17日早朝、大きな揺れで目が覚めた。当時、大阪府八尾市に家族とともに住んでいたという清家氏は、自宅の1階にいた。大きな揺れで、普段はなかなか起きてこない子どもたちも「お父さん、何が起きたの?」と言って2階から降りてきた。
すぐにJIFHの事務所に行き、倒れた本棚や机などを整理しながら、情報収集のためにテレビをつけたままにしておいた。徐々に明らかになる被災状況だったが、神戸にいる2人のスタッフの安否は依然分からないままだった。電話をしてもつながらず、「公衆電話からの方がかかりやすい」という情報を聞けば、長い列の最後尾に並び、公衆電話の順番を待った。状況も分からないことに不安を覚えた清家氏は、スタッフと共に現地入りを決意。高速道路が倒壊し、通行止めがあちこちで起きていたため、周辺の交通網は麻痺していた。バイクに乗って、詰めるだけの食糧と水を背中に背負って、神戸を目指した。
「西宮の辺りから、徐々に様相が変わっていった」と清家氏は話す。神戸市内から避難しようとする流れと逆行するようにバイクを走らせ、流れる光景に目を疑ったという。「まるで、戦後の日本のようだった。何もかもが焼け焦げているように見えた」と話す。
スタッフ2人の安全を確認した後、被災地域周辺の教会を訪ねた。尼崎市のクライストコミュニティ武庫之荘チャペルを訪ねると、そこは被災地に近いながらも電気や水は確保されていた。「ここを支援のベースキャンプにさせてもらえないか」と尋ねると、快諾してくれたという。
その後は、東京、カナダ、バングラディシュ、カンボジア、ペルーから続々と支援チームが到着。炊き出しや倒壊した家の片づけの手伝いなどを行った。教会が地域の拠点となって、炊き出しやボランティアを派遣したのは「良いお証しになったのでは」と、清家氏は話す。若いボランティアたちが、リスクを負いながらも倒壊した家屋に浸入し、思い出の品を取り出す作業を手伝ったり、医療チームが結成されてからは、被災者たちの心のケアに当たったりした。
中には、教会を遺体安置の場に使用し、教会内でありながらも「無宗教」の葬儀として、犠牲になった人々の葬式を行った教会もあった。
「あの現場では、それが教会にできる最善のことだったと思う。ご遺体が出てきても安置する場もなく、火葬する場もなく、もちろんご葬儀をする場所もない。そこで、教会がその務めを果たしたのは素晴らしいと、私は個人的に思っています」と話した。
また、地域の人々のために教会を開放し、寝泊まりさせていた教会もあった。倒壊した教会の外で炊き出しを行ったり、ベビーフードを配ったりした教会もあった。
「ベビーフードを、高校生くらいの男の子たちが、『これ、もらってもいいですか?』と恥ずかしそうに言ってきたことがありました。育ち盛りの男の子は、お腹が空いていたのだと思います。『どうぞ』というと、遠慮がちに2つだけ持って、家に帰っていきました」と当時を振り返る。
JIFHでは、ベースキャンプを閉鎖するまでの約2カ月間で延べ2400人余りのボランティアが活動したという。
「災害時、教会は地域の中で重要な役割を果たすということが、阪神・淡路大震災の時に得た確信です。神社やお寺ももちろん、そういった役目を果たすのだと思いますが、歴史ある古いお寺や神社ほど倒壊しやすく、被災しやすいのです。教会は、わりと新しい建物が多く、たくさんの人を収容することができます。また、イエス様にあって、兄弟姉妹が全国にいますから、連携がとりやすいのです」と話した。
地震大国日本にあって、近い将来、また遠い将来にも大きな地震がこの国を襲うことがあるだろう。その時に、教会が果たす役目とは何か。今一度、考えていきたい。(続きはこちら>>)