「あの日」から22年、「今も後悔していることがある」と話すのは、兵庫県尼崎市にあるクライストコミュニティ武庫之荘チャペルの大橋謙一牧師。当時の話を聞いた。
大橋牧師が、開拓伝道のために兵庫県芦屋市に引っ越してきたのは1994年11月。新年から礼拝を行うべく準備を進めていた。1月1日には、「芦屋チャペル」の第1回の礼拝を信徒10人ほどと共にささげた。それから2週間ほどたった17日の早朝、「ドーン」という大きな音と今までに経験したことのないくらいの大きな揺れで目が覚めた。横に寝ていたのは、当時1歳の子どもと臨月の妻。
部屋には、妻が結婚するときに買ったという大きなタンスと、重たいブラウン管がついている旧型のテレビ。それらがいつ妻のお腹を直撃しても不思議ではなかった状況の中、奇跡的にテレビとタンスが支え合う形で小さな空間ができていた。その空間にすっぽりと入っていた3人はかすり傷1つ作ることがなかったという。
寒い1月の早朝。車にエンジンをかけて、妻と子どもを車内に避難させると、隣の家が全壊しているのが見えた。高齢者の女性が一人暮らしをしていたというその家に向かって、大橋牧師は、「おーい!!大丈夫ですか?」と声の限りに叫んだ。すると、かすかに声が聞こえた。間もなくして、その家の親族が到着。2人で女性を救出した。
その後はいったん、武庫之荘チャペルに身を寄せるが、身重の妻と幼い子どもは、神奈川の実家に帰した。震災から1カ月ほどたった2月20日、無事、男の子が誕生した。
大橋牧師は、全壊した「芦屋チャペル」の敷地内で、震災の翌日から炊き出しを開始した。親類が大阪市内の量販店に勤めていたことから、お米や水などの支援を受けることができた。それを、電気が確保できている武庫之荘チャペルで炊き、ある限りの人手でおにぎりを作って、地域の人々に提供した。
「地域のために、なんていう大きなことは何も考えられなかった。ただ、倒壊した家が並ぶこの街で、自分も被災しているが、そんな自分にもできることをやるだけ、と無我夢中だった」と話す。
それまで、日本の教会が中心となって、こうした被災地でボランティアをするというモデルがなかったことから、「教会が地域に果たす役割」というのは、被災した瞬間から模索するしかなかったという。
やがて、日本国際飢餓対策機構(JIFH)が武庫之荘チャペルをベースキャンプにしたことで、共に動くことができた。
礼拝は、全壊したチャペルの外で半年ほど行った。「寒かったですね。しかし、どこか場所を借りようにも全て壊れてしまって、場所がなかったのです。どうなるのかとても不安でした」と当時を振り返る。
そんなある日、大橋牧師は夢を見た。夢の中でイエスに「失われた6千人以上の命のためにも福音を宣(の)べ伝えよ」と言われたという。
そして、もう一度、教会を再建する覚悟をしたのだという。全国から頂いた支援献金を基に、震災から約2年後、献堂することができた。
支援活動を通して知り合った被災者たちには、避難所や仮設住宅に移った後も、大橋牧師1人で訪問を続けた。献堂式にはその人々にもぜひ来てほしいと願い、招待状を送ったが、8割は「宛先不明」で戻ってきてしまったのだという。仮設から転居した後は、ほとんど交流することがなかったからだ。
「私は、今でも悔やんでいることがあるのです。被災地で、福音を語ることはタブーとされる風潮がどうしても今の日本にはあるような気がするのです。しかし、被災地にこそ福音が必要なのではないかと思います。私は、地域と人には『ボランティア』として仕えてきたかもしれない。しかし、タンスとテレビの間に挟まって、奇跡的に神様から救っていただいた命は、『ボランティア』をするためではなかったと思います。福音を伝えるべきだったのですよね。もちろん、タイミングがあります。しかし、同じ被災した牧師である自分だからこそ伝えられた言葉があったのでは、と思うのです」と話した。
震災から1カ月後に生まれた次男は、今春、神学校を卒業して、父と同じく召命を受け、牧師としての道を歩む。「あの日、救われた命は、自分のものではないと本人も思っているようです。幼い頃、まだ教会がなかった頃、家にあった献金箱に足を突っ込んで抜けなくなってしまったことがあって、その姿を見て、妻とよく『この子は、献身したのね』なんて言って笑っていたのですが、本当に召命され、献身の道を歩むとは思っていませんでした。感謝です」と話した。
「あの日」のことは、決して忘れることができない。その後に起こった新潟県中越地震、東日本大震災、熊本地震など、日本各地で地震が起こるたびに、あの恐怖と不安がよみがえる。しかし、大橋牧師の足は自然と被災地に向かい、ボランティアとして仕えている。