何気なく深夜番組表で発見し、「確か話題作だったな」という理由だけで録画予約した。そのまま数カ月、なかなか見る機会がなく放置していた。娘が「見ないなら消すよ」と脅しにかかったので、慌てて視聴したのだが、これがとんでもない作品であった。テーマは「知的障がい者とその家族」。今でも時々思い出し、考え込んでしまう。
主演は、芸達者な竹中直人、そしてこれが初主演作となる貫地谷しほり。監督は多産で有名な堤幸彦。2013年の作品である。原作は2012年に惜しまれながらも解散した劇団「東京セレソンデラックス」の宅間孝行が書いている。宅間は本作にも障がい者役で準主役として出演している。舞台は知的な障がいを負った者たちが共同で暮らす自立支援ホーム「ひまわり荘」、物語はこの空間のみで進んでいく。舞台作品が元になっていることが一目で分かる。
そこに元漫画家の父親(竹中直人)と、障がいを持つ娘(貫地谷しほり)がやって来る。父親はスタッフとしてホームに勤務しながら、娘と共に暮らすことを考えていた。しかし同時に、娘が果たしてこの共同生活になじめるかどうか不安を抱えていた。というのも、娘は過去に男性恐怖症になってしまう苦い経験をしていたからである。
序盤、温かい人々の交流とコメディータッチのほのぼのとするエピソードが織り合わされていく。やがて中盤にさしかかると、予想外のことが起こる。なんと娘がホームで一番の問題児だと言われている男性と恋仲になり、結婚の約束をしてしまうのである。周りの人々は驚きを隠せない。
2人は結婚して果たして自活できるのか? それ以前に彼らは「結婚」という意味をちゃんと理解しているのか? そんな思いがよぎるのだが、仲むつまじく過ごす2人を見て、皆は祝福しようと思い始める。一方、父親はこの出来事を通して、いつまでも娘を自分の元に置いておくことはできないということを思い知らされることとなった。
しかし運命の歯車は、全く予期しなかったところから狂い始める。父親が突然吐血し、診断の結果、末期のすい臓がんだと診断される。このことを誰にも言えない父親。娘の結婚という甘酸っぱい別れを想定していた彼に突きつけられた無情な宣告。もう間もなく自分はこの世に存在しなくなる。その後、本当に娘は1人で(または障がい者の彼と)生きていくことができるのか?
ついに父は娘をホームから退所させ、別々に暮らすことを決断する。自分がいなくなった後でも生きていけるように、障がい者施設で娘を暮らさせようと考えたのである。しかしこの決断が、もう後には引けない残酷な結末の始まりとなる。娘は何度も施設から抜け出す。自分を求めて彷徨(さまよ)い、今は閉鎖されている「ひまわり荘」に忍び込んだ彼女の姿を目にした父親は、最も苦しい「決断」を実行する・・・。
映画の結末は、よく三面記事で目にする「事件」と重なるところが大きい。それは知的障がい者に理解を示さない社会に対する間接的な批判、または問題提起と受け止めることができる。また、現世では恵まれなかった父娘が来世で一緒に幸せに暮らした、というファンタジックな解釈をすることもできる。
しかし、である。キリスト者としてこのような出来事をどう受け止めるべきか? おそらくこのような映画が生み出された最も大きな理由は、この物語をきっかけにして今まで多くの人が見てこなかった「世界」に対し、眼差しを向けてもらうことだろう。それなら真摯(しんし)に向き合わなければならない。
今年は障がい者に対する無情な刃が向けられた。日本における戦後の殺人事件としては、同時に最も多い人命が奪われたという意味で、決して風化してはいけない事件が起こった年である。映画の動機とは異なるため、一緒に論じることに批判もあろうが、映画の父親と殺傷事件の犯人に共通したモノがあるとしたら、それは障がい者の行く末を悲観的に捉えてしまった、ということであろう。
もちろん、簡単に希望を語れるなら、こんな映画ができるはずがない。そしてあんな悲惨な事件が起きるはずがない。ここに現代の「答えなき問い」が確かに存在している。そして、これは体験しなければ分からない苦しみである。
ここで、次に「だから」とつなげるか、それとも「しかし」とつなぐか。ここが最大の分岐点となる。「だから」苦しみの中にある本人にしか分からないのだ、として問いに背を向けるか、それとも「しかし」限られた状況でも語れることはある、と問いに向き合おうとするか。これまた「答えなき問い」となってしまう。
本コラムは決して牧師が大上段から「有り難いお言葉」を振りかざす場ではないし、そんなことをしたいとも思わない。私がいつ、また私の家族がいつ今の生活から外れてしまうか、それは誰にも分からないし、絶対にそんなことはあり得ないなどとうそぶくこともできない。誰でもそういう状況に出くわすこと、また陥ることはある。そのことを十分踏まえて、以下を続けたい。
私は、ここであえて「しかし」と言いたい。正確には、言える者でありたいと願う。ここで私たちが何を信じ、どんな生き方を選択するかが問われることになる。目の前に絶望が広がっている。少なくとも私たちにはそう思える状況が展開する。その時、その悲観的なありさまに流されてしまうか、それともこれにあらがうのか。
聖書の中では、「ヨハネ黙示録」に次いで異色だと言われている「ヤコブの手紙」に目を向けてみると、次のような言葉に出くわす。
「あなたがたの中で知恵の欠けている人がいれば、だれにでも惜しみなくとがめだてしないでお与えになる神に願いなさい。そうすれば、与えられます」(ヤコブ1章5節)
ここで言う「知恵」とは、「人間が限界を感じたときに初めて機能する神からの賜物のこと」と注解書などには書かれている。つまり人間が「もうだめだ」と感じたとき、キリスト者はその状況を打開するための知恵を神に求めるなら、それを神は与えてくれる、と解釈することができる。
考えてみると「ヤコブ書」は、プロテスタントキリスト者が一般的に受け止めている「行いではなく、信仰によって救われる」という主張と真っ向から対立する意見を述べている。「行いのない信仰は死んだものだ」と。
そんな「ヤコブ書」だからだろうか、絶望を感じたときに「神に委ねよ」とか「これを御心として受け止めよ」とは書かれていない。「絶望するな」「まだ手はある。それは神に知恵を求めたらいいのだ」ということになる。
一般的には、ヤコブ書はイエスの兄弟にして初代教会のリーダーであった「ヤコブ」が書いたとされている。公同書簡であるため、教会が直面している具体的な悩みや苦しみにフィットする回答が展開していると解釈するなら、まさにこれは「それでもネバー・ギブ・アップ」と訴えていることになる。その問題のただ中で留まれ、と言われているような気がする。
私は「くちづけ」のような絶望的な映画をよく見る。今回、思い出したのはラース・フォン・トリアー監督の「ダンサー・イン・ザ・ダーク」である。こちらも絶望を絵に描いたような傑作であった。かつてはこういった作品を見て、「やっぱり世の中には解決できないことが多いんだな」とどこか他人事のように考えていた。しかし50歳を間近にして、もはや出来事を他人事には捉えられない自分を発見している。
いつ何時私たちは絶望を味わうかもしれない。そんな時、果たして自分はそのただ中にあって、逃げずにその「答えなき問い」に向き合うことができるのか? そしてその問いに対する、自分としての「答え」を見いだすことができるのか?
そうでありたいと願う。そうできる、と自信を持って答えらえるほど「信仰的」にはなり得ない。しかし、そうでありたいと常に思い、そして今日も「神からの知恵」を頂いて、一日を精いっぱい生きる者でありたい。
絶望を感じない世の中にはならないだろうが、絶望のただ中で踏みとどまれる信仰者になりたい。
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