ホリプロお笑い班が正式にスタートし、仕事も増え、芸能の仕事だけで生活できるようになりました。「お前たちはホリプロという“金看板”を背負っている、プライドを持て!」「良いものを着、良いものを食べ、良いものを見ろ!(映画・舞台・芸術etc…)」とのマネージャーの言葉に必死についていきましたが、まだ若かった私は、時折、勘違いギアに入ることがあり、そのたびに高くなりかけた鼻っ柱をへし折られる失敗もありました。
それは、ネタの構成や視点が面白いと言われ、いろいろなライブ番組に出演させていただけるようになったり、キャラクターを買われていろいろなドラマにも出演させてもらえるようになった頃でした。
私にとって、今までにない大きな仕事が舞い込んできたのです。その年の秋からスタートする深夜の報道・情報番組、テレビ朝日「プレステージ」でした。私は番組内で毎週3日、深夜の生中継レポーターを務めることとなったのです。メーン司会に生島ヒロシさん、飯星景子さん、そして蓮舫さんなど、豪華キャスト陣勢ぞろい! いきなりの大役に、うれしさとワクワク感いっぱいの半面、大きな不安で押し潰されそうになりました。
実は、MCやレポーターは大の苦手だったのです。お笑いタレントとしてレポーターを依頼されたときは、毎回死ぬほどの緊張感で、脳みそはパンパンになり、時には台本にきっちり書き込んだメモが本番では舞い上がって全く目に入らず、変なノリと勢いだけで突っ走り、家では「独り大反省大会」・・・ということもよくありました。
マネージャーからは、「この番組がお前の未来を左右する!」とプレッシャーをかけられ、緊張はピーク! 顔合わせで会った、私と同コーナーを交互に担当する新人レポーターの女の子は、芸歴は変わらないのにとても落ち着いて度胸がありそうに見え(実際そうでした^o^;)、始まる前から敗北感を抱きました。
そして、迎えた第1回目の本番、生島さん、飯星さん、蓮舫さんの優しさと励ましに力付けられ、気合いを入れて、深夜の六本木へと出て行きました。テーマは、日本で初めて導入される「消費税」についての特集でした。その時も、綿密にディレクターさんと打ち合わせ、台本にいっぱいメモをしていたのですが、演出上の行き違い、というアクシデントが起こり、それを私は把握しきれず、変な空気のままでコーナー中継が終わってしまいました。
私のミスではなかったとしても、臨機応変な対応ができなかったことを反省しました。そして、回を追うごとにレポーターとしての未熟さがどんどん露呈していき、週3日あったレギュラーが、もう1人の彼女に変わり、私は週2日に減り、それも1クール(3カ月)を待たずして降板・・・。当然、マネージャーからは散々叱られ、すっかり自信を失くし、ますます「レポーター恐怖症」は悪化していきました。
たまたま物まねができた、ということでお笑いの世界に入りましたが、もともとお芝居が好きで役者になりたかったので、司会やレポーターなど、アドリブが要求されるお仕事は自分に向いていないという思い込みもあって、苦痛を感じ、そういった仕事をたくさん入れられることに愚痴ってしまうこともありました。今思えば、ぜいたくな話であります。
この失敗は、「私にはできない」という否定的な思い込み、恐れや不安、自己憐憫(れんびん)的な考えが引き起こされ、現実になったのだと思いますが、どこか調子に乗っていたところもあったので、「良い薬」になったのも事実でした・・・。
現在は、賛美クスなどで、教会奉仕や福祉施設の慰問、イベントステージやレッスンなど、その場の状況に応じて自由にお話をする・・・ということを楽しくできるようになってきました。それは、「私は1人じゃない。主が私と共にいてくださり、一緒に働いてくださっている」という平安を頂いているからでしょう。いつもそばにいてくださる、自分の中に住んでくださっている神様に、あらためて感謝です!
「プレステージ」降板後、同じくテレビ朝日の人気情報番組「女の60分!」のオーディションを勧められました。しかし、「生で、自分のレポートしてきたVTRを見ながら、スタジオで大女優の先輩方の突っ込みを上手く受け流しつつ進行する!」なんて妙技、当時の私にとって、東尋坊の崖からのダイブより恐ろしいことで、「む、無理です!!!」と、即、断ってしまいました。
でも後に、私はこの番組で期待されるアタッカー(レポーター)へと成長していくことになるのです・・・。レポーター恐怖症を克服するきっかけとなった出来事・・・それは、ある方との出会いでした。
「わたしはあなたに命じたではないか。強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの神、主が、あなたの行く所どこにでも、あなたとともにあるからである」(ヨシュア1:9)
(つづく)
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