源氏物語
漢字なしで、紫式部は『源氏物語』という小説を書いた。天才であれば、漢字がなくても仮名だけで小説が書ける。ちょうど千年前のことである。清少納言も同時代の作家である。
もう1つ驚くべきことに、日本には千年前に「女流文壇」が存在したということである。それでお互いに日記の中でライバルの批判などを書いている。あの女は態度がはしたないとか、あの表現がまずいというように。『源氏物語』をめぐって、幾つかの重要な点がここにある。
(1)千年前に、すでに「女流文壇」が存在した国など他にはない。女性に教育を授けることを考える文化は、もっとずっと後代のことである。
(2)日本文化には、女性を知的な存在として認識する要素が初期からあったことが分かる。
(3)仮名文学は女性のものと考えられていた。優れた文学は優れた読者層を前提とする。つまり、優れた女性の読者層があったことが分かる。
(4)『源氏物語』は、世界で最古の小説である。小説とは伝説、叙事詩、民話、また物語などとは決定的に違う。人物の心理描写があって、その人物の描写を通して世界理解または人生観などが表現されているものをいう。その意味で『源氏物語』は、「現代小説」である。人間はしょせん自分1人分の人生しか送れぬが、小説は不完全ながら自分以外の人生を覗(のぞ)かせてくれる。
それが女性の読書層によって支持されて発生し、存在し続けたのである。
(5)小説の成立する文化とは、成熟した社会の存在を示唆する。日本社会の文学的成熟は、不思議な現象である。同時代の『万葉集』の存在とも合わせて独自の豊かな文化が築き上げられていたことが分かる。人々は自分の感情を表現し、人生と世界についての観念を歌った。それが婦人層から始まったのである。
紀貫之は、あえて「平仮名」で紀行文を書いた。彼は女性の読者を意識したのだろうか。それとも女流文学の達した境地を高く評価し、自分もその土俵で勝負しようとしたのだろうか。
日本文化の根は深い。これを侮ったり、軽く見てはいけない。もちろんやたらに恐怖することもない。これは豊かな日本的なキリスト教文化を形成するための土壌であり肥料である。それはわれわれの召命の1つでもある。
(後藤牧人著『日本宣教論』より)
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【書籍紹介】
後藤牧人著『日本宣教論』 2011年1月25日発行 A5上製・514頁 定価3500円(税抜)
日本の宣教を考えるにあたって、戦争責任、天皇制、神道の三つを避けて通ることはできない。この三つを無視して日本宣教を論じるとすれば、議論は空虚となる。この三つについては定説がある。それによれば、これらの三つは日本の体質そのものであり、この日本的な体質こそが日本宣教の障害を形成している、というものである。そこから、キリスト者はすべからく神道と天皇制に反対し、戦争責任も加えて日本社会に覚醒と悔い改めを促さねばならず、それがあってこそ初めて日本の祝福が始まる、とされている。こうして、キリスト者が上記の三つに関して日本に悔い改めを迫るのは日本宣教の責任の一部であり、宣教の根幹的なメッセージの一部であると考えられている。であるから日本宣教のメッセージはその中に天皇制反対、神道イデオロギー反対の政治的な表現、訴え、デモなどを含むべきである。ざっとそういうものである。果たしてこのような定説は正しいのだろうか。日本宣教について再考するなら、これら三つをあらためて検証する必要があるのではないだろうか。
(後藤牧人著『日本宣教論』はじめにより)
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