B 日本人の独創性
もともと日本人は技術的にも独創性に富む民族である。
鋼鉄の鍛造
日本刀の製造を考えると、適度の不純物を含んだ鋼鉄を熱して伸ばし、折り曲げて鍛造し、その折り曲げを20~25回繰り返すと多くて数千万の層になる。それを整形するとさまざまな要素がラミネートされた刀身ができる。研ぎ上げて世界で最高の切れ味と粘りを持った刀ができる。現在でも古式によって鍛造された日本刀の鋼鉄は、近代的工業製品の鋼鉄より優れているという。
そこで日本刀の鍛造時の温度管理であるが、温度が高すぎれば一塊になってしまい、層が形成されない。また、温度が低ければ層は密着せず、強度が低下する。切り付けたところ刀身が折れ曲がり、曲がったところがバラバラに何百枚もの薄層になった、そういう刀身をどこかの博物館で見たことがある。
たぶん小学校の宝物室だったかと思う。そこには刀は武士の魂である、こういう安物の刀を持っている者は魂が腐っているのである、と注釈がついていた。かわいそうに、貧乏ならしょうがないではないか、と子ども心に思ったことである。もちろん、小学校だから「この男は、酒と女に身を持ち崩して・・・」などという、親切な解説は付けてなかった。
その適当な温度の範囲は、どれくらいであろうか。たぶん±10~15度くらいか。その温度帯をいったいどうやって昔の刀匠は判断したのであろうか。またそれを、いったいどうやって弟子に教えたのであろうか。
もし何百年に1人という天才が、何本か作ったというのなら分かる。しかし、これは全国に何千人もの刀鍛冶がいて、それが一斉に作り、それも千年以上伝承されてきた。そういうシステムが出来上がっていたのである。それはカンの素晴らしさと、伝承の不思議さで、言葉を越えたコミュニケーション、以心伝心の極意である。
外国人で多少とも技術に理解のある人を上野の国立博物館の地階に連れて行き、鎌倉時代の古刀など見せてそのようなことを説明すると、気絶するほど驚く。そこで昭和ヒトケタの老人である筆者は少し得意になるのである。
1543年に種子島に鉄砲が伝来し、領主の種子島時尭(ときたか)は1万両(現在の20億円くらいか)を払って銃を2挺購入した。英明なる君主だったのか、当時17歳(親が急死して跡を継いだ)で、珍しいものが欲しくてたまらないバカ殿だったのか。彼は島の刀鍛冶に同じものを作れ、と乱暴な命令を出した。その乱暴さを見ると、あまり利口ではなかったのかもしれない。ところが、この非常識な命令を1年でクリアして、種子島の刀鍛冶はめでたく銃のコピーを完成させた。これはほんとうに驚くべきことであった。
だが、もっともっと驚くことがある。それは種子島のこの事件から、銃の製造の技法が全国に広まったのである。そうして10年たつと、日本全国の銃の総数は10万を越え、当時のヨーロッパ全体の銃の数より多かったという(5万挺という説もあるが、それこそ五十歩百歩で、どちらでもよいだろう)。(宇田川武久『鉄炮伝来』中公新書)、それから30年余り後の長篠の戦(1575年)には、3千挺の銃が使用された。これは、世界で初めての大規模銃撃戦とされている。
このような銃の急速な普及は、日本に優秀な鍛造技術があったから可能だったのである。それはまた、生産技術の根底にある品質管理ということに日本人が長けていることを示している。なお1543年とは、それ以後は軍備の予算がかさんだ「イゴヨサン」と読める。
品質管理は戦後にデミングに習ったということになっているが、たぶん彼から学んだのは「明文化」「マニュアル化」ということにすぎないであろう。品質管理の内容そのものは、日本人が千年も前から実践していたことである。米国では、デミングは評価されていない、空理空論とされている。市民一般に、品質管理の高い伝統のない米国では、意味がないのだろう。
種子島から50年後、秀吉の朝鮮出兵(1597年)の時、朝鮮半島には銃がなかった。沙耶加という名の日本の武将が、日本を捨てて朝鮮側につき、銃の使用を教えたという記録がある。種子島銃はポルトガル船から買ったのであるが、デザイン、設計から見ると欧州銃ではなく、中国銃であったという。地続きの朝鮮半島には当然流入していたであろうが、流行してはいなかった。ところが、日本人は飛び付いたのである。ここに日本人の機械物に対する興味、生産技術、応用などの性癖がまざまざと現れている。集中豪雨的な大量生産も、近頃始まったものでないことが分かる。
なお、2度目の元軍の襲来、弘安の役(1281年)の時の遣品の中に、元が使用した銃があり、福岡の元寇博物館にある。短銃にしては長く、騎兵銃の感じである。まだ武器としては発達が未熟で、戦術的な価値は大きくなかったのだろう。
(後藤牧人著『日本宣教論』より)
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【書籍紹介】
後藤牧人著『日本宣教論』 2011年1月25日発行 A5上製・514頁 定価3500円(税抜)
日本の宣教を考えるにあたって、戦争責任、天皇制、神道の三つを避けて通ることはできない。この三つを無視して日本宣教を論じるとすれば、議論は空虚となる。この三つについては定説がある。それによれば、これらの三つは日本の体質そのものであり、この日本的な体質こそが日本宣教の障害を形成している、というものである。そこから、キリスト者はすべからく神道と天皇制に反対し、戦争責任も加えて日本社会に覚醒と悔い改めを促さねばならず、それがあってこそ初めて日本の祝福が始まる、とされている。こうして、キリスト者が上記の三つに関して日本に悔い改めを迫るのは日本宣教の責任の一部であり、宣教の根幹的なメッセージの一部であると考えられている。であるから日本宣教のメッセージはその中に天皇制反対、神道イデオロギー反対の政治的な表現、訴え、デモなどを含むべきである。ざっとそういうものである。果たしてこのような定説は正しいのだろうか。日本宣教について再考するなら、これら三つをあらためて検証する必要があるのではないだろうか。
(後藤牧人著『日本宣教論』はじめにより)
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