シュリーマンの江戸来訪
トロイを発掘したハインリヒ・シュリーマン(1822~90)は、幕末の日本を訪れている。江戸は天保年間で人口が100万といわれていたが、幕末にははるかにそれを超えていた。彼は、この国には平和、行き渡った満足感、豊かさ、完璧な秩序、そして世界のどこの国にもましてよく耕された土地などがあると言い、ただ貴族が政治を行い、労働者は無である(なんらの権利も与えられていない)、とも言っている。(『シュリーマン旅行記 清国・日本』講談社)
筆者の意見では、日本語が分からない者が、なぜ労働者は無であると断定できるのか。アジアだからこうであろうという予断によったのであろうか、または彼を案内したのが為政者、権力者の側の人間であって、庶民がペコペコお辞儀をしているのを見てそう思ったのだろうか。
江戸の人口中、武士階級は50万ほどであった。江戸八百八町の民間の治安は町奉行が担当した。ところが、町奉行は200~300人のスタッフしか持っていない。実際の警察業務はどのように行われたか、それを担当したのは目明かし、木戸番などであったが、彼らは全て町会の費用で雇われ、そのようにして治安が保たれていた。自治があったのである。(童門冬二、NHKシリーズ、2003年)
歌舞伎はその主要な登場人物が遊女であったり、盗賊であったり、庶民や下積みの階層のものが多い。主題としては、当時の社会や倫理、政治に対する抗議があり、「忠臣蔵」も、また心中ものも、当時の社会の倫理に対する抗議で満ちていた。観客は、その抗議に共感を覚えて集まった。そのため、歌舞伎は常に為政者によって弾圧された。客は庶民であり、この日本を代表する演劇は民衆の払う入場料によって成立していた。
当時のヨーロッパのオペラ、またシェイクスピアの演劇のごとく、王侯貴族からの資金によって運営され、題材も上流階級の生活から取られていたのとは大きな違いである。歌舞伎はそれらとは違い、庶民が主人公であった。
このように、歌舞伎劇場は反政府的なメッセージの発信地であり、町奉行からの報復措置で閉鎖されていることが多かった。
それで、祭礼時に歌舞伎を奉納興行として寺社奉行の許可のもとに(江戸町奉行の管轄でなく)、ある一定期間に限って興行する。益金のうちのいくばくかを寺社に寄付する。そういう形態がよく取られた。
中里介山の『大菩薩峠』によると、寺社の境内で丸太を組み、ムシロがけの急造の小屋で行われる興行は、緞帳(どんちょう)だけは本物を持って来るので「緞帳芝居」または「緞帳興行」などと呼ばれたという。
また「あいきょう手踊り御歯磨調合所○○」などと幟(のぼり)を立て、寺社の境内で「はみがき粉」を売るための宣伝の芸であるという体裁をとったものもあった。内容は立派な芝居であった。
一般に当時の演劇は青空芝居ともいわれ、晴天時のみ興行した。(吉田伸之『成熟する江戸 日本の歴史17』講談社)
照明のない時代で、劇場では昼間のみの興行を行った。それを補うためには、ろうそくの灯火(ともしび)でも興行できる小規模のもの(寄席)が流行し、一日の労働を終えた多くの庶民が集まった。江戸の市中には、このような寄席が千カ所もあったという。寄席は大きな料理屋の座敷、また金満家の座敷を借りるなどして行われた。政府がこれら小規模のものの思想的内容を取り締まることは、もう不可能であった。(吉田伸之、前掲書)
労働者が祭日に出掛け、粗末な小屋で、しかし豪華なキャストで歌舞伎が上演され、人々がエンジョイしている、そのような光景をシュリーマンも親しく見ている。もし彼がその演技の半政府的なメッセージを分かっていたら、「労働者は無である」は訂正され、「行き渡った満足感」の理由もより良く把握できたことだろう。
歌舞伎はそもそも「遊女歌舞伎」であったが、あまりの人気と影響力に、幕府はこれを禁止し「若衆歌舞伎」として美少年を使わせた。それでかえって人気と影響力が増し、幕府の開府50年目ごろには、これも禁止してしまい、ついに「野郎歌舞伎」にさせられた。女優を禁止し、それで演劇としての魅力がなくなってしまったはずだった。
しかし、歌舞伎の側では女性的なものの本質の表現と描写に脚本家、男優ともに努力し「女性」の抽象的表現に成功、かえって深化した。根絶やしにしたい当局の努力に反して、かえって磨きがかかっていったのである。
歌舞伎の元祖である出雲阿国(いずものおくに)が、京都で最初の興行をしたのは関ヶ原の3年後であった。秀吉の華やかな時代が去り、徳川の地味な時代になったが、これは京都の民衆には不評判であった。その不満を代弁して徳川を揶揄(やゆ)したのが最初の歌舞伎の内容だった。たちまち幕府はこれを禁止したが、度重なる禁止と妨害にもかかわらず、歌舞伎が大いに発展していったのは、上に述べた通りである。
終戦後しばらく、歌舞伎は連合軍総司令部(GHQ)に、「封建的な価値観を表現している」として(?)禁止された。どちらになっても弾圧されるのが、歌舞伎の運命らしい。時代への批判精神のために歌舞伎は常に新鮮であり、生き延びてきた。
(後藤牧人著『日本宣教論』より)
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【書籍紹介】
後藤牧人著『日本宣教論』 2011年1月25日発行 A5上製・514頁 定価3500円(税抜)
日本の宣教を考えるにあたって、戦争責任、天皇制、神道の三つを避けて通ることはできない。この三つを無視して日本宣教を論じるとすれば、議論は空虚となる。この三つについては定説がある。それによれば、これらの三つは日本の体質そのものであり、この日本的な体質こそが日本宣教の障害を形成している、というものである。そこから、キリスト者はすべからく神道と天皇制に反対し、戦争責任も加えて日本社会に覚醒と悔い改めを促さねばならず、それがあってこそ初めて日本の祝福が始まる、とされている。こうして、キリスト者が上記の三つに関して日本に悔い改めを迫るのは日本宣教の責任の一部であり、宣教の根幹的なメッセージの一部であると考えられている。であるから日本宣教のメッセージはその中に天皇制反対、神道イデオロギー反対の政治的な表現、訴え、デモなどを含むべきである。ざっとそういうものである。果たしてこのような定説は正しいのだろうか。日本宣教について再考するなら、これら三つをあらためて検証する必要があるのではないだろうか。
(後藤牧人著『日本宣教論』はじめにより)
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