次に、鎖国時代から開国、太平洋戦争までを手短に扱う。また、日本文化の中の幾つかの事例で、日本人の性格をよく表現しているように思えるものも挙げたいと思う。
A 鎖国(1)
バイヤースの疑問は、なぜ日本は鎖国していたのか、またなぜ遅れて国際舞台に登場して、植民地を要求し始めたのか、ということである。彼によると問題はそこに集中しているようである。そもそも鎖国という消極的平和主義はどこから出てきたのであろうか。
キリスト教国の領土的野心
徳川政権成立(1603年)前の1596年のこと、サン・フェリペ号事件というのがあった。高知に漂着したスペイン船があり、調査に行った増田長盛が航海士にどうしてスペインは世界中にそんなに領土を持っているのかと聞くと、彼は世界地図を見せながら次のように言った。
まずカトリックの布教があり、その後で、信者となった者が同じ信仰の王を求めて反乱を起こす。スペインの軍艦が来て強力な砲で応援し、こうしてスペイン領となる。やがて世界全てがスペインの領土となるであろう。
この航海士の言葉は直ちに豊臣秀吉に届いた。そうして日本人の持っていた疑惑、すなわち「日本もアジアの他の国のように紅毛人に国を奪われるのではないか」は、ますます深くなった。スペイン人高級船員は田舎に漂着したので、地方の役人だと思って世界地図を見せながら威張ったのであるが、彼の言葉は中央に筒抜けになったのであった。
この時、スペイン人高級船員はとんでもないホラを吹いたのだろうか。実はそうではなかった。彼の話は正確だったのである。
このあと、秀吉はキリシタン圧迫政策を始めた。その時の秀吉のキリシタン圧迫は全く見当違いな政策で、要するに島国根性を発揮したということにすぎないのだろうか。
この頃、九州の領主がイエズス会に長崎の地を領地として寄進したことがあったが、秀吉はすぐにそれを取り返し、その領主を移封してしまった。領地は関白秀吉のものであり、諸侯はそれを預っているにすぎないということであって、秀吉はそれを領主の移封によって示した。
秀吉の後、徳川幕府も、キリスト教を植民政策の先兵であるとし、これを恐れた。仏教も儒教も、外国から来て日本に聖人の教えを広めたが、キリスト教はそれとは違って、国を奪い、富を持ち出し、人民を奴隷にするので、幕府はそのようなキリスト教を邪教、妖教(ようきょう)であるとした。
これは果たして当時の日本人のとんでもない誤解だったのだろうか。それとも、むしろ歴史的根拠と世界的な視野に基づいた正確な認識だったのだろうか。
1600年から20年まで(徳川家康と家忠の時代)、世界の銀の生産量はヨーロッパから見て420トンであった。ところが、そのうち200トンの銀は日本からだった。当時の世界は銀本位制であり、貨幣とはわずかの不純物を含んだ銀片を量って用いていた(秤量貨幣)。
つまり日本からの銀は、ヨーロッパからの輸入品に対する支払いだったのである。このような日本からの多量の銀の支払いは、欧州の経済を混乱させていたという。これは、当時も日本の経済力が強大であったことを示している。ヨーロッパ列強には、この日本国をあわよくば征服しようとする誘惑が強かったことが分かる。
すなわち、ヨーロッパとその領土(メキシコなど)からの産銀量(その年のヨーロッパの収入であった)にほぼ相当する金額が、日本からヨーロッパに支払われていたのである。
家康は海外交易を大々的に行った。将軍職は子どもに譲り、大御所(おおごしょ)という称号で静岡に居住し、清水港を本拠に貿易に励み、多額の金銀を貯めた。当時、海外に居住する日本商人とその家族は、10万を数えたという。
家族の交易の範囲はノビスパン(新スペイン・・・メキシコのこと)にまで及んだ。スペインのメキシコヘの侵略は家康の約100年前のことである(この時のメキシコは、テキサスからカリフォルニアも含む広大な区域である)。スペインのコンキスタドール(征服者)はこの100年間にインディオの度重なる虐殺を行った。
スペインにとっては、インディオは動物と人間の中間の存在であり、人格も魂も持っていないので、殺しても構わなかったのである(『アリストテレスとアメリカ・インディアン』ルイス・ハンケ著、岩波新書)。
インディオの虐殺について、家康はどの程度の把握をしていたのだろうか。彼は英人船長のウィリアム・アダムス(三浦按針)とオランダ人航海士のヤン・ヨーステンを重用し、貪欲に世界の情報を吸収していた。
ヤン・ヨ一ステンは日本名で耶楊子(やようす)と呼ばれ、その住まいは八重洲屋敷と呼ばれた。今の東京駅の八重洲口付近である。アダムスとヨーステンは家康に重用され、アダムスは通商に関しては自分の意見はことごとく用いられた、と自称していたという。
なお、ルイス・ハンケのこの小著は、日本宣教研究を志す者にとっては必読の書であろう。ヨーロッパ・キリスト教が内包している人種問題の罪の基底が、ここには論じられているからである。
これを読むと「ヨーロッパ/アメリカ・キリスト教」という宗教が持っている「人種的傲慢(ごうまん)」の罪が、決して偶発的なものでなく、むしろそれが思想の根底にあることが明白となる。
家康はインディオの虐殺についてメキシコの交易先から直接に報告を得ていたのだろうか。それとも側近の英人とオランダ人から間接的に情報を得ていたのだろうか。いずれにしても、家康がこれらについて何も知らなかったとするのは無理がある。
カトリック教国の軍隊が来たら日本でも同じようなことが起こると思っただろうか、思わなかったか。いずれにしても、家康の視野は狭くなかったことだけは確かである。
このように、日本はカトリック教国を猜疑(さいぎ)の目をもって見た。カトリック教はこれまで日本人が接した宗教とは違っていた。教えをもたらすだけでなく、妖教キリスト教は貪欲だった。
洗礼と同時に領主はポルトガルやスペインの王家に忠誠を誓わされるのであり、これらの王は自分の領地になると現地人を奴隷とし、また殺しまくり、国の富を奪って持っていくのである。
一般には日本人がヨーロッパ人を拒絶したことをもって島国根性の表れであるとし、日本人の心の狭さの表れであるとする説が多い。日本は鎖国によって近代化への道を絶たれ、精神的牢獄につながれた、とする説も有力である。
しかし、日本がヨーロッパ人を深い猜疑心をもって見たのは、間違いではなかった。その態度は、正しい国際感覚に基づいていた。そう言わざるを得ないのである。
キリシタン宣教に伴い、西欧との交易が始まった。その中には、日本人を奴隷として西欧またはマカオなどの植民地に売却するポルトガル奴隷商人の活躍があった。
天正年間の少年遣欧使節は旅行中に日本の奴隷に会っている。また、秀吉はジェスイット(イエズス会)の責任者に対して、彼らが奴隷取引に関わっていることを非難し、これを即刻禁止するように命令している。
日本人の奴隷は真面目でよく働くというので評判が良く、需要が大きかったようである。禁止にもかかわらず、日本人奴隷の密輸出は続き、3代将軍家光の鎖国政策によって初めてやんだのである。
なお、この時の秀吉の態度を見ると、日本国という国家主権の及ぶ範囲、そこに従属する民についての、少なくともある明白な概念が存在しているように見える。これはサン・フェリペ号事件からも伺える。
たぶんジェスイットの宣教地で、その土地の王または首長からこのような抗議を受けたことはなかったのではないか。どこでも庶民がこのようにして売られていくことに対しての抗議などなかったので、奴隷交易は常識だったのである。秀吉のこの時の態度は中世の為政者ではなく、むしろ近代的な国家の責任者の態度に通じるような気がする。
なお、ジェスイットの強引な伝道は憎悪され、同じ頃(1550~1600年)に英国でも500人を超える神父、修道僧が処刑されている。キリシタン迫害は日本だけのことではなかったのである。
繰り返すようであるが、一般には徳川の政策は間違っていた。鎖国は単に日本人の島国根性の表れにすぎない、などという主張が多くされている。しかし、この見方はカトリック教国が世界中の有色人種を奴隷とし、搾取し、虐殺したことについて無知なところから来ているのだろう。
それとも、アジアの国々は侵略したが、日本だけは例外扱いをしたに違いない、と考えているのだろうか。他の人種に対しては鬼畜のごとくだったが、日本人だけにはキリスト教国は紳士的だっただろう、日本人にだけは他の有色人種とは違った態度を取って、対等に扱っただろう、と仮定しているのだろうか。
徳川幕府はそのような無責任な「仮定」をしなかった。当時の世界の情勢とカトリック国の振る舞いを知っていた徳川幕府は、そういう「仮定」に頼らず、キリスト教は国を奪う「妖教」であるとした。
果たして徳川幕府が正しかったのか、間違っていたのかを決めるのは容易ではないだろう。ただ、今は宣教学の立場から歴史を見ているのであって、そこよりすれば決める必要はない。
日本宣教学にとって重要なのは、徳川幕府はカトリック教国が日本を植民地化しようとしていると「判断した」ということの認識である。またもう1つ、徳川幕府が「鎖国」という特殊な形であったが日本の独立を守ろうと決意したこと、その認識である。
(後藤牧人著『日本宣教論』より)
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【書籍紹介】
後藤牧人著『日本宣教論』 2011年1月25日発行 A5上製・514頁 定価3500円(税抜)
日本の宣教を考えるにあたって、戦争責任、天皇制、神道の三つを避けて通ることはできない。この三つを無視して日本宣教を論じるとすれば、議論は空虚となる。この三つについては定説がある。それによれば、これらの三つは日本の体質そのものであり、この日本的な体質こそが日本宣教の障害を形成している、というものである。そこから、キリスト者はすべからく神道と天皇制に反対し、戦争責任も加えて日本社会に覚醒と悔い改めを促さねばならず、それがあってこそ初めて日本の祝福が始まる、とされている。こうして、キリスト者が上記の三つに関して日本に悔い改めを迫るのは日本宣教の責任の一部であり、宣教の根幹的なメッセージの一部であると考えられている。であるから日本宣教のメッセージはその中に天皇制反対、神道イデオロギー反対の政治的な表現、訴え、デモなどを含むべきである。ざっとそういうものである。果たしてこのような定説は正しいのだろうか。日本宣教について再考するなら、これら三つをあらためて検証する必要があるのではないだろうか。
(後藤牧人著『日本宣教論』はじめにより)
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