階級社会とバイパス
さて、独立を保ったことにより、日本はアジアの他の国々とは違い、富の蓄積が可能であった。教育が普及し、18世紀には都市部では文盲はほとんどなくなった。江戸で瓦版は300種類も発行されていた。
驚くべきことに、寺子屋という初等教育機関は、公的な支出なしに成立していた。寺小屋は、親たちが納める授業料だけで運営されていた。貧乏人の子は月に野菜を1把持っていくだけでよかった。だいたい12歳で卒業するまでに、ソロバンで複利計算ができるようになるまで教えた。
もちろん、そういう高級なところまでついていけない子どもは、途中でやめて小僧に出たわけである。しかし、最後まで行った子どもは、大店の小僧となり、番頭として働く道が与えられていた。
このように初等教育が公的支出なしで行われた例としては、寺小屋は世界で唯一であろう。初等教育を普及させようと、現在でもあらゆる国の政府が汲々(きゅうきゅう)としているが、成功しているところは少ない。事もあろうに公的資金なしに、江戸時代の日本ではそれが成立した。まさに、例外的なことが起こっていたのである。それはなぜか。
1つの理由は、日本に安定して繁栄した社会があったからである。それは子どもに勉学の時間を与え得る社会、また自分の子どもに教育を与えると、それがその子にとって有利である、そのような社会であった。
植民地化を免れた日本は、富の蓄積が可能で豊かな社会が築かれた。また、鎖国という特殊な事情のもとで文化が凝縮された。それらの例を、少し挙げてみたい。
江戸時代は一応階級社会であるが、階級をバイパスするものとして教育があり、教育の結果としての知的実力を尊重する社会だった。
二宮尊徳(1787~1856)は、親戚の家の住み込みの作男で、納屋で寝起きしていた。住むところもない、貧しい人間だった。
彼の読書欲を知った社会は、彼を放置しておかなかった。やがて彼は小田原藩の家老の子どもの学友として採用された。彼の経済能力を認めた家老は、自分の家の財政の立て直しを依頼した。
作男にすぎなかった尊徳は、家老の一家の経済の取り仕切りの権限を与えられ、間もなくその難事に成功した。そのことが藩主の耳に入り、藩主の親戚の旗本(1万石未満)の栃木・桜町の領地の経営を任され、これにも成功。
やがて尊徳は、小田原藩の財政の立て直しを任された。乞食すれすれの作男だった彼は、家老待遇を受け、藩の財政を預かる身となった。やがてこれにも成功。
彼は幕府の役人となり、幾つかの小藩の経営の指導を任された。このように江戸時代は、社会階層に関しては流動性のあるダイナミックな面を持つ時代だったことが分かる。
もう一例を挙げると、勝海舟(1823~99)の家は祖父が盲目の按摩(あんま)で、揉み療治で貯めた金で御家人の家の株を買った。日本の家族制度は、養子縁組という柔軟な制度によって、全くの他人でも家系に入れることができるようになっている。こうして、祖父は自分の息子(小吉)を勝家に養子として入れ、そのことを金で取り決めた。
小吉の子の海舟は優秀であり、オランダ語がよくでき、ついには幕府末期の海軍大臣になった。当時、幕府は東アジアで最大の海軍を持っていた。彼は後に明治政府の海軍大臣も務めた。
能力が重要であった。祖父が按摩であるかどうか、それが旗本の株を買って・・・というような出自(しゅつじ)は問題にならなかった。このような上昇的な流動性を持っていた国は、世界でも珍しかったのではないか。
なお、旗本というのは徳川家の家来であるが、1万石未満のものをいう(1万石以上は大名)。旗本を2つに分けて旗本5千、その下の御家人1万7千であった(旗本8万騎といったが、実質は2万余)。
勝家は御家人のうちでも微禄で、たったの41石である(米1石は約140キロであるから、キロ500円とすると、1石で7万円、41石では年間287万円の収入ということになる!)。貧乏旗本もいいところである。たぶん飽き飽きしていたのだろう。借金も先祖代々溜まっていたのだろう。いくばくかの金で話をつけ、借金も新しい当主に任せて、本人は町人になってしまったのだが、それも分かるような気がする。
小田原藩の尊徳の例は別に例外ではない。薩摩藩では調所広郷(ずしょ・ひろさと、1776~1849)が経済を建て直したが、彼は茶坊主上がりだった。また、長州藩の財政を再建した村田清風(1783~1855)は60石取りの下級武士だった。
田沼意次(1719~88)も、幕府の老中として5万石の大名となったが、もとは紀州の足軽の子である。将軍家に小姓として上がり、やがてその才能を認められた。彼は資本主義的な方策を導入し、大きな成果を上げたが、時代は彼を理解できなかった。世評の差がはなはだしい人物である。
このように、江戸時代は能力と知的訓練が認識され、それによる人材の登用が自由に行われる、まさにダイナミックな時代だったことが分かる。
戦前の小学校には、二宮金次郎の銅像が必ずあり、勤倹力行(きんけんりっこう)の象徴として教えられていた。終戦と同時にこれは、軍国主義の象徴であるとして取り壊された。果たしてどうだったのだろうか。文部省に、あるいは知恵者がいたのか。その当時の軍人が威張っている日本にも、江戸時代のこの出自(しゅつじ)を問わないダイナミズムが欲しいなどと思っていたのだろうか。
このような例のほかにも、1つの藩の産米の取り扱いを一手に引き受け、藩に対して融資を行っていたような豪商は、たいてい家老の待遇を与えられていた。商人は士農工商の4つの階級の最下位のはずである。しかし日本は、是々非々の国である。原則はあっても常に柔軟に運用される。有名な酒田の本間家が「本間様には及びもせぬが、せめてなりたや殿様に・・・」と歌われたというのも、そのような事情である。
近世の日本の伝統には、パワー・エリートが存在しなかった。パワー・エリートとは政治権力、経済、学問などを一手に独占している階級のことである。日本社会には、そういうものは存在したことがなかったのである。
現在の東南アジアでは、何のバックも持っていない若者が上の階級に登れるルートは軍隊だけであろう。それ以外に階級をバイパスするものは一般にない。
また米国の社会では、若者にとって富への道はスポーツか犯罪である。米国の高校で最も人気があるのは体育の教師で、皆が憧れるのであり、人気がある。日本とは大違いである。
米国には野球のスタジアムが400ほどあり、それぞれにプロの球団がある。つまりメジャーの下に3A、2A、Aと4軍までのリーグがあり、それぞれ球団活動をしている。だから、プロの野球選手の数が日本の3、40倍もある。日本では考えられないくらい盛んである。
ところが、それでも観客の動員数から言えば、野球はトップではない。第1位はバスケット、2位がアメリカン・フットボールで、次いで野球で、野球は3位である。このようにプロ・スポーツ選手の数が日本では想像できないほど多い。米国の一般の若者にとって、一番身近な「出世の階段」はプロ・スポーツ選手なのである。
(後藤牧人著『日本宣教論』より)
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【書籍紹介】
後藤牧人著『日本宣教論』 2011年1月25日発行 A5上製・514頁 定価3500円(税抜)
日本の宣教を考えるにあたって、戦争責任、天皇制、神道の三つを避けて通ることはできない。この三つを無視して日本宣教を論じるとすれば、議論は空虚となる。この三つについては定説がある。それによれば、これらの三つは日本の体質そのものであり、この日本的な体質こそが日本宣教の障害を形成している、というものである。そこから、キリスト者はすべからく神道と天皇制に反対し、戦争責任も加えて日本社会に覚醒と悔い改めを促さねばならず、それがあってこそ初めて日本の祝福が始まる、とされている。こうして、キリスト者が上記の三つに関して日本に悔い改めを迫るのは日本宣教の責任の一部であり、宣教の根幹的なメッセージの一部であると考えられている。であるから日本宣教のメッセージはその中に天皇制反対、神道イデオロギー反対の政治的な表現、訴え、デモなどを含むべきである。ざっとそういうものである。果たしてこのような定説は正しいのだろうか。日本宣教について再考するなら、これら三つをあらためて検証する必要があるのではないだろうか。
(後藤牧人著『日本宣教論』はじめにより)
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