市場経済の成立
徳川幕府の成立時のことであるが、大阪において淀屋という米商人の店先で米の取引が行われ、諸国の産米が大阪に集まり、倉庫証券の売買が行われ、正米取引という現物の取引以外にも、帳合米、帳面上の決済による取引、先物取引などが行われていた。
幕府は初め先物取引などは弊害が多いとして禁止し、後にもさまざまな規制を加えたが、取引は引き続き活発に行われていた。1697(元禄10)年に堂島新地の開発とともに堂島に取引が移り、1730(享保15)年に幕府は先物取引に関する法制度を整備した。
このように米国が成立する百余年前から、すでに日本には資本主義的市場経済が成立していたのである。
『堂島旧記』(大阪経済史料集成)には、1615(元和元)年から1870(明治3)年に及ぶ米の取引の記録、天候、市場の消長などが記録されているという。商品市場や先物取引というのは、これをもって農業が第二次産業化するのである。この取引によって次年度の収入を予定できて、それにより農業も多年度にわたる事業計画が可能になる。
このような市場経済が成立するためには、豊富な一次産品の存在、商業倫理の成立、保管・運搬などのインフラストラクチャーの整備、一般民衆の読み書きと計算能力、また経済が暴力によって左右されない、ルールに従って行われる自由な経済活動、それを成立させている安定した社会(すなわち、独裁的な政治権力の不在、また中央政府の有効な統治、警察力が正常に機能している)などが前提とされる。それらのうちの1つが欠けても、ノーマルな市場経済は成立しない。
特に一次産品の豊富さが必要である。穀物が余っているから、取引が成立するのである。大部分の人民が飢餓状態にあるような場所では、市場経済は成立しない。このように見て来ると、日本は徳川時代には、すでに成功した国家だったことが分かるのである。
先物取引とは、これこれの米が何千石、とか言っても、現実にはその商品はまだ存在していない。すなわち、抽象化された概念としての市場の成立である。抽象化された市場というのは、実は資本主義経済の基礎である。現在の世界でも、資本主義的市場経済が円滑に運営されている社会など多くはない。植民地化され、搾取された経験を持つ社会は(東欧の旧ソビエト衛星国も含めて)資本主義経済への離陸がほとんど不可能のようである。
徳川時代の日本の繁栄は、近世の非ヨーロッパ世界における「例外」である。むしろ「奇跡」と言ったほうが正しいかもしれない。(なお、ヨーロッパでアントワープ、ロンドンなどで商品市場が開設されたのは16世紀で、日本よりわずかに早い)
マックス・ウェーバー以来、資本主義はプロテスタンティズムの倫理から発生したというのが定説である。この定説を破る事実がここに存在しているのだが、日本の学者でこのことを論じている人はいないようである。門外漢ではあるが、不思議に思っている。
江戸時代になって木綿の生産が盛んになり、近畿が特に優れていた。綿花は多量の肥料を食う。初めは関東から三陸にかけてのイワシが使用されたが、これが枯渇すると北海道のニシン、サケが使われた。北海道のサケは多量に干して俵に詰め、日本海から関門海峡を抜けて瀬戸内海を航行し(北前船)近畿に運ばれた。もちろん、北海道の肥料ばかりでない。日本海沿岸の産物は活発に大阪に集まり、こうして約2千キロにわたる長大な経済圏が成立していた。江戸時代は決して眠ったような時代ではなかった。
瀬戸内海は約400キロ×50キロ(2万平方キロ)の内海であるが、豊後水道(幅12キロ)以外は関門、明石、鳴門のいずれも幅2キロ以下の海峡で、特に関門は600メートルしかない。それで、潮の干満に際して主として豊後水道から多量の海水が出入りする。干満の差を約2メートルとすると1平方キロで200万トン、それが2万平方キロだから400億トンの海水が6時間で流入し、次の6時間でそれだけがまた出て行く。
12時間で1サイクルで、一日にはそれが2サイクルある。その膨大な海水は豊後水道から入って来て、広島辺りにぶつかり、右回りに海流が回って行く。潮が干くときは左回りになって出ていく。つまり瀬戸内海の海運は、沖がかりでなく、岸がかりである。船は潮流に流されて行けばよいので、岸に近いところが流れが速い。そうやって6時間流されて、次の6時間は潮待ちをし、ついで次の潮に乗る。無動力でいいのである。
内海の穏やかな所でエネルギー・コストはゼロ、海難がなく輸送ができる。こうして瀬戸内海の沿岸の諸都市は栄え、その中心をなす近畿は繁栄した。いわば東名高速にも似たベルトが常に動いており、無料で利用でき、何百トンでも動かせるのである。ここに日本の古代からの繁栄の理由がある。近畿一帯の古墳の広大さを見るとき、それがうなずけるのである。
世界でこのような場所はもう1つ、ナイル流域である。河口で帆を揚げると北風が常に吹いているので、テーベまでさかのぼる(その先は急流になる)。帆を降ろすとナイルの流れによってアレクサンドリアまで下る。常に北風が吹くことについては、古代ギリシャの歴史家へロドトスも驚いて記録している。
この無料運搬エネルギーによって、古代エジプトの繁栄が成立した。瀬戸内海はこれに匹敵する。立地条件を考えると、瀬戸内海の方が恵まれているかもしれない。
ナイルの水運は、現代のエジプトの産業にとってあまり貢献していない。瀬戸内海の意味は、現代の日本にとって大きい。市場経済の成立に当たってはこのように江戸時代の繁栄ということが、成立の要因として存在する。
だが一般には、江戸時代とは暗い時代で、農民は困窮し、一揆が頻発したという印象が強いが、どうなのだろうか。
一揆について調べると、1590(天正18)年[安土・桃山時代の終わり、江戸幕府の開府の13年前]から江戸時代の終わるまでの280年間に、3212件の百姓一揆が記録されている。これを250の領地で割ると、一領国当たり22年に1度の割合で百姓一揆が起こったことになり、農夫は22年に1度は領地での一揆を経験したことになる。
全ての一揆が、藩全体に及んだ訳ではないはずである。1人の農夫が戸主である期間を30年と考えると、その間に1度の一揆を経験するか、しないかくらいだったと思われる。
一揆と呼ばれる中には、領主の国替えがあったとき、領民が代表を江戸に送って国替えの中止を嘆願し、幕府がその要求を受け入れた、というものがある。次に来る領主の評判とか、今のお殿様の方がいいとか、さまざまな理由が複合していたらしいのである。もちろん、1つには領主に貸していた金が、国替えになり新しい殿様が来れば踏み倒されてしまうので、それを避けたいというのもあったらしい。このように平和裏に運ばれた例も「一揆」と呼ばれている。
(後藤牧人著『日本宣教論』より)
*
【書籍紹介】
後藤牧人著『日本宣教論』 2011年1月25日発行 A5上製・514頁 定価3500円(税抜)
日本の宣教を考えるにあたって、戦争責任、天皇制、神道の三つを避けて通ることはできない。この三つを無視して日本宣教を論じるとすれば、議論は空虚となる。この三つについては定説がある。それによれば、これらの三つは日本の体質そのものであり、この日本的な体質こそが日本宣教の障害を形成している、というものである。そこから、キリスト者はすべからく神道と天皇制に反対し、戦争責任も加えて日本社会に覚醒と悔い改めを促さねばならず、それがあってこそ初めて日本の祝福が始まる、とされている。こうして、キリスト者が上記の三つに関して日本に悔い改めを迫るのは日本宣教の責任の一部であり、宣教の根幹的なメッセージの一部であると考えられている。であるから日本宣教のメッセージはその中に天皇制反対、神道イデオロギー反対の政治的な表現、訴え、デモなどを含むべきである。ざっとそういうものである。果たしてこのような定説は正しいのだろうか。日本宣教について再考するなら、これら三つをあらためて検証する必要があるのではないだろうか。
(後藤牧人著『日本宣教論』はじめにより)
ご注文は、全国のキリスト教書店、Amazon、または、イーグレープのホームページにて。
◇