修道院の生活、食事と斎(ものいみ)
日本ハリストス正教会
東京復活大聖堂教会(ニコライ堂)
司祭 パワェル中西裕一
聖山アトスでは、正教徒の場合3泊4日の滞在が許可される。聖山内では原則として写真撮影は禁止、ビデオカメラは持ち込み不可。私たちは聖山の実情を伝えるため公式に許可を得て写真撮影を行い、修道院を回っている。まず、聖山の政庁で、首席大臣(左から2番目)に面会し、10泊11日に延長された入域許可証と写真撮影の許可状を頂く。しかし、この許可があっても完全に自由ではなく、各修道院でもあらためて個々に承諾を得なければならない。この写真は、許可状を受領後に首席大臣が快く撮影に応じてくれて実現した。
さて、聖山の修道院へ至るには、成田空港10:15発~チューリッヒ着15:50、チューリッヒ発20:35~アテネ着は日付が変わって00:10、空港で仮眠(ホテルに泊まるまでもないので、空港のベンチでボロ切れのように横たわって)、翌朝08:40エーゲ航空で09:30テサロニキ着、タクシーでバスターミナルへ、12:45発のバスで15:00ごろにアトスへの入り口であるウラヌーポリ(天国という意味)の町へ、ここで行きつけのホテルへ。翌朝09:45アトス行きフェリーで12:00ごろアトスのダフニ港着、バスで首都カリエへ12:30着、滞在許可の延長のため首席大臣と面会し、13:00発のミニバスに乗り、14:30ごろ(成田出発から2日目)に、ここメギスティス・ラヴラ修道院に着く。
この十字架を見ると、ほっとする。かつて、ミニバスのなかった頃は、最後は徒歩(30キロ)。川又一英さんのアトス関連の著作や、村上春樹さんの『雨天炎天』などで知られているように(写真の遠景がメギスティス・ラヴラ修道院)。
963年にアトスの聖アタナシオスは、この地域に初めてこのメギスティス・ラヴラ修道院を開いた。彼は、聖堂建設に携わる途上、落下した円蓋(えんがい)の下敷きになるという事故で永眠した。周辺のスキテ、ケリも含めた、在籍修道士が現在最も多い修道院である。
写真は聖アタナシオスの不朽体(アギア・リプサナ)の納められた棺(ひつぎ)と、この部屋の入り口の床。所属する修道士たちと年間1万5千人を超える巡礼者たちが、ここを通り不朽体に接吻するので、敷居中央部分の大理石は床と同じ高さにまで摩耗している。アタナシオスは背後の山の水脈から水路を引いて生活用水とした。現在、その水脈を利用したアトス唯一の水力発電施設もある。
いわゆる不朽体の開示。リプサナ=λείπω(レイポー・残す)という動詞と同根の名詞。つまり、残されたもの「聖遺物」のこと。ラヴラ修道院に伝わる不朽体の開示風景。聖アタナシオスがこの聖堂を建てた976年ごろのものが3キロもある。
前駆授洗イオアン、聖致命者ステファン、聖大ワシリイ、聖ミハイル、聖アレクサンドル、聖致命者ディミトリイ、首聖歌者聖ククゼリス、次いで聖金口イオアン、聖ネクタリの腕が並ぶ。頭骨は金属で覆われ、小さく開口部があり、そこに接吻する。髑髏(しゃれこうべ)に直接に唇を接することができる(ちょっと白っぽく変色している)。
写真の光景が毎日繰り返される。並べる順序もずっと(少なくとも13年前から)変わらない。この不朽体を至聖所から高くささげ持ち、搬出して戻す役目は司祭に限られ、扱い中は必ずエピタラヒリ(司祭の証し)をつける。修道院にはこうした驚くべき聖遺物があり、巡礼者は接吻し、聖人の恵みを受けるためにやってくる。
<記憶の祈り>修道院に巡礼に訪れる人たちは、隣人や家族の名を書いた紙を司祭に託す。私たちは聖体礼儀やパラクリシスという祈りの中で、生神女マリアや聖人たちに、祈りの神に伝えてもらうように「とりなし」を求めて、たくさんの紙に書かれた名前を1人ずつ読み上げ、彼(彼女)らのために祈る。そして、全く同じ祈りが、私のために、隣人や家族によってささげられていることに、大きな恵みと救いを実感する。そして「絶えず祈る」ことにつながっていく。
8月27日、聖大致命者ファヌーリオスの祭日(今の暦では9月9日に当たる)。昨夕、本院をジープで出てアトス半島の最突端部を少し降ったファヌーリオスのケリへ。大祭日の徹夜祷を終え、食事をして朝9時に本院に戻った。
今回は、司祭は私だけ。H修道士と私の2人が派遣された。着いてみると、司祷者はグレゴリウー修道院の院長に次ぐ長老司祭(掌院)で、何度もお会いしているものの、その陪祷と判明して緊張が高まるが、輔祭が立つのでほっとしたのが本音。
大晩課が始まったのは午後9時で、領聖は翌朝7時半。徹夜祷は体力がないといけないと思う。早めに着いて、いまだ来訪者が少なかったので(開始時25名くらい集まった)、ケリの様子を撮ることができた。
到着すると、水、コーヒー、ブランデーを頂いたが、どれも半分くらい飲んでから、「そうだ、写真を撮らねば」と気が付いた。
修道院の祭日の魚料理の用意。鱈(タラ)のはらわた、首と尻尾を取ってから、そのまま厚めにぶつ切りにするので背骨は真ん中に残ったまま。大きな鍋にきれいに並べていく。タマネギを擂(す)り下ろしておいて、たっぷり魚の上にまぶす。ニンジン、インゲン豆、ニンニクのスライス、ハーブ、塩、胡椒、レモンの絞り汁とオリーブオイル、熱湯を加えて火にかける。魚が崩れないようにやさしく煮込む。
別に、ジャガイモとニンニク、レモン汁とオリーブオイルをからめて、オーブンで、少し焦げ目が付くくらいに焼いたものに、いま煮込んだ魚の煮汁を少しからめて、乾燥パセリをかけて付け合わせにする。レモンの酸味、オリーブオイルと擂ったタマネギで煮込んだソース、ニンニクの香りとともに味わう魚の味が忘れられない。
聖人コスマのパニギリのコリバ(糖飯)で。パン工房を訪れて、製作担当の修道士に聞くと、色は細かくしたパンの粉に野菜で付けるそうだ。例えば、紫はビーツを用いているとのこと。全てが自然で色粉は使っていない。
聖山ではゆかりの聖人の記憶日に当たる日、食事の前にコリバを祝福して配ってからトラペザ(食堂)へ。大きいから2本の木材に載せて、担架のように2人で運ぶこともある。ベースは麦だが、ナッツ類も混ざっていて適度に甘く、ご飯にかけるふりかけを想像する。
<コリバの由來>聖フェオドルの致命後50年を経たとき、背教者ユリアヌス帝はキリスト教の信者を侮辱するために、コンスタンチノープルの知事に命じて、肉を食べてはいけない大斎(おおものいみ)の第1週に市場の全ての食料に邪神へのささげ物にする血を注がせました。この時、聖フェオドルはコンスタンチノープルの大主教エフドクシイの夢に現れ、全ての信者に市場で何も買わないように知らせることを命じました。彼らはその代わりに麦を炊いて蜂蜜を混ぜた「コリバ」を食べました。
大修道院の周囲にはケリと呼ばれる修道小屋、1軒家が点在する1人暮らしから数人単位で庵を結んでいる。ケリでの夕食。いまだ明るいけれど、この日は前駆授洗イオアンの斬首祭の日で、斎(節食)となる。
野菜や穀類、芋類のみの食事。前日は、油、ぶどう酒はOKなので、食卓にはワインが。食事は、各種野菜のトマト煮込み。茄子、ニンジン、隠元豆、ズッキーニ、ニンニクを大胆に切り混ぜて、オリーブオイルとトマトペースト、コショウ(粒)、バジルを加えて煮込み、最後に塩で味を調えるだけ。
茄子が一番「権利」を主張している料理(この料理、焦がした茄子が入る場合もある)。茄子の皮が、ちょっと固めだけれど、実の部分がトロッとしていて、それがトマトや仄(ほの)かなニンニクの香りとからんでおいしい。それに、それだけでちゃんと腹持ちもいい。
そして、トマトとキュウリだけのサラダ。塩をかけるか、ワインビネガー、あるいはレモンを搾って食べる。
食事が終わったら、晩堂課(「食後の祈り」という意味)になり、悪魔に誘われなくて穢(けが)れない身にて眠りを得られるように祈り、床に就く。
聖山アトス乾酪週のケリにて。朝食(乾燥パン、ゆで卵、チーズ、グリークチャイ、チョコレート)、夕食(すごく柔らかく茹[ゆ]でたマカロニ・トマトソースかけ、パルメザンチーズをたっぷり、レタスとトマトのサラダ、チーズ、パン)。この週は、毎日、毎日、チーズと卵を食べる。
乾酪週の主日の夕食は、最後の贅沢(ぜいたく)で豪華な魚料理。食事が終了すると、食堂で晩堂小課を祈り、その場にいる人全て(主教、修道士、巡礼者)と「カリ・サラコスティ(よき斎を)!」と総当たりで、声を掛け合って抱き合って励まし合い、大斎に入る。
さて、これは修道院ではなく、ギリシャの町中の話。正教徒は復活祭前の40日間を大斎と称し、肉、魚、乳製品、卵、油、酒などを口にしない。大斎の初日ギリシャでは「清浄な月曜日」と呼ぶ国民の祝日であり、平べったい種なしのパンを食べ、子どもたちは広場で凧(たこ)を揚げる。
マクドナルドはその節食者への対応として「断食マック(マックサラコスティ)」なるメニューを展開する。左上、肉を用いないパティを使った「もどき」ハンバーガー、エビフライ、斎サラダ(マルーリ=レタスだけ)、左下はアップルパイ、春巻き(肉無し)。エビ、タコ、イカがOKなのは、赤い血液が流れていないから。厳格な人は、ビスケット(卵、牛乳、バターを含む)も敬遠する。
写真は、店で食べるトレイに敷いてあるシート。「大斎マック」「習慣にしよう!」とある。食べてみてよかったのはエビフライ。ただし、ウスターソースはギリシャに無いし、もちろんそんなもの(獣の出汁)を掛けて食べては、「斎マック」をあえてとった意味がなくなるので、ケチャップにする。