聖山アトスの修道士と共に
―祈りの深まる時―
日本ハリストス正教会
東京復活大聖堂教会(ニコライ堂)
司祭 パワェル中西裕一
ギリシャ国民は、その95パーセント以上がキリスト教徒である。ギリシャ正教と呼ばれ、初代教会よりの伝統を重んじてきたキリスト教のルーツとなる教派に属する。そのギリシャ国内には世界の正教徒たちが憧れ続けてきた大聖地がある。古くから女人禁制を貫き、約千年にわたる祈りの伝統を保ち、2千人以上の修道士たちが住まう。
首都アテネに次ぐ大都市テッサロニキから車で3時間ほど、ハルキディキ半島の北端ウラノーポリ(天国の入り口)という港町に着く。そこから船に乗って3時間、ダフニ港に着くと、そこは幅5キロ、全長約45キロのアトス半島の玄関口である。このアトス半島は、ギリシャ政府から独立を認められた宗教自治国であり、陸路からこの地に入ることはできない。半島の突端には2033メートルのアトス山が聳(そび)えていて、20の修道院と修道小屋(ケリ)が半島全域に点在する。
ここに住まう修道士たちのほとんどは、2度と世俗の生活に戻ることなく、ここで祈りの生活を続けて生涯を終える。修道生活と聞けば、苦行や厳しい禁欲生活を思うが、神の国を待ち望む確信に満ちた祈りの生活の中で、その表情は明るく喜びに満ちている。
ここは暦(こよみ)も異なり、今も13日遅れているユリウス暦を採用している。朝は4時から8時まで祈り、その後に朝食。畑仕事や裁縫係、 巡礼者の受付係など、持ち場を任された仕事に従事する。夕方は5時から再び祈りの時間となり、8時過ぎには夕食、食後の祈りを終えると、巡礼者たちと歓談のひと時を過ごし、翌朝の祈りに備えて自室に戻り、祈りをささげて就寝する。
メギスティス・ラヴラ修道院で親しくなったA修道士はロシア人だった。アトス山修道院では、ロシア、セルビア、ルーマニア系の一部の修道院を除き、ギリシャ語を日常語とするから、たまたま訪れた自国の巡礼者と彼があいさつを交わすまで彼の母国を知らなかった。ここは国家という枠組みを超えた国である。「世界」という言葉は、ギリシャ語では「コスモス」であるが、これは世俗的な世界と、それにつながる神の国も含む「神の一なる世界」を意味する。
「シマンドロ(板木)は2時45分に鳴る、早課(早朝の祈り)は3時からだ」、夕食後の祈りを小聖堂で終えて宿坊に戻る道すがら、朝の祈りの時刻をA修道士は告げた。翌朝は鐘の音とトントンというシマンドロという板木の音で眠りから覚めた。しかし、その目覚めは朝の祈りへの期待を伴うものだったから、むしろ気がせくのを覚えていた。ランプの灯りを手がかりに宿坊の扉を押し開けて、青白い月明かりのもと主聖堂の前庭に出ると、A修道士がシマンドロを打ち終わり、「カリメーラ(おはよう)」と声を掛けた。そしてたった1本のろうそくを頼りに鍵を開けて主聖堂へと導き入れてくれた。
ほとんど手探りの闇の中を進み、聖アタナシオスの不朽体(聖遺物)に伏拝し接吻すると、次いで堂内のイコンを巡り王門前へ至り、そこから今度は燭台をともして回った。ろうそくは少なくオイルを満たした器に芯を浮かべたものがほとんどだ。彼がそれを丹念にともしていくにつれ、黒くくすんだ壁面のフレスコのイコンがろうそくに照らし出されていく。時折、芯の入れ替えや油の補給をして、それが終わる頃までには修道士と巡礼者たちは聖堂に集まり、王門前のイコンに接吻してそれぞれが祈祷席に着いた。
修道院長が定位置に着くと、一人の若い修道士を呼んで耳打ちをした。そして、彼は私のもとに歩み寄って来て言った。「あなたは滞在期間を延長したいそうだが、何日間をご希望ですか」と。私は、「3泊4日の滞在を希望します」と告げると、「修道院長はあなたの滞在を歓迎しています」と答えた。前晩(ぜんばん)に私の希望を告げたA修道士の口添えがあったからだ。
アトスの修道院は通常1泊が原則なのだが、修道院長の許可があれば滞在許可証の期限までは連泊することができる。あとでA修道士に礼を述べると、「君が望むだけいても大丈夫だ」とニッコリと笑みを浮かべられて大いに戸惑った。彼とはメギスティス・ラヴラ修道院では最も親しくなり、滞在中はいろいろと便宜を計ってくれた。
朝の祈りでは早課の祈りがとりわけ壮大で、日本の祈祷書では想像がつかぬほど、祈りの時間も長い。ギリシャには教会暦に沿って一冊にまとめられた祈祷書があり、これと邦訳が私の手元にある。しかし、窓から差し込むわずかな月明かりと堂内の灯火だけではもちろん判読できない。やがて修道司祭の高声と共に祈りが始まり、祈祷文が読まれ、聖詠(詩編)の誦読(しょうどく)に入った。
かつて、私が初めてのアトス行きをある友人に告げたとき、彼はある祈りをアトスでささげてほしいと、それを私に託していた。その時、私は彼から託された祈りをささげることを思った。やがて、その祈りを繰り返し、ひたすら思いを集中する姿勢が続いたが、ふと窓の外が白んでいるのに気付いたが、早課はいまだ続いていた。
しかし、それをきっかけとして、祈りに集中することが体得され、むしろ時の流れをほとんど意識しなくなっていった。そして堂内がすっかり明るくなる頃になると、なんとか自分の祈りができるきっかけを得たように思えて、むしろ爽やかな気持ちに満たされていた。祈りに徹底的に集中できる、これは修道院であるからこそ―そしてアトスであるからからこそ―できることなのではないか。私がアトスの修道院を訪れ続けているのは、そういった徹底した祈りの時を過ごしたいからなのだ。
アトスにはさまざまな祈りの場がある。滞在するメギスティス・ラヴラ修道院から、アトス山を見上げると、急峻(きゅうしゅん)な南東斜面にはり付くように廃屋のような建物が認められる。興味を示すと、M修道士は、「あれがグレゴリオス・パラマスの修道小屋だ」と教えてくれた。それはちょうど復活祭に向けての大斎(おおものいみ)の真っ只中。
私たちは、奉神礼(ほうしんれい)に携わり、修道院の仕事を日々助け合いながら受け持っていた。未明からの朝の奉神礼に臨み、聖体礼儀を終えてトラペザ(食卓)で朝食を終えて、聖堂の清掃もひととおり済ませ、城壁のテラスに登り、春の柔らかい日差しを浴びながら、ほっとしたひと時を過ごしていた。
「今からあそこへ行こう、案内するから」と。しかし、深い木立に囲まれた急斜面に、いわばポンと投げ込まれたように見える建物へと、どこからどのように登って行けるのか不安を感じたが、この機会を逃してはとの思いが先立った。
聖歌を交互に歌いながら、道なき道をなかば這い登って小1時間ほど。途上、人一人がやっと入れるほどの打ち捨てられた洞穴を目にしたので訪ねてみると、もうこの辺りには、20年以上前に永眠した独居隠修士を最後に一人もいなくなったとのことだった。次第に傾斜が強くなり、裾の長いアンデリ(黒衣)は足元にからみつき、ついには裾を腰に巻き上げねば歩けなくなるほどだった。
たどり着いてみると、そこには、小さな聖堂を備えた修道小屋があった。クモの巣をはらって中に入り、イコンに接吻してから、イコノスタシスの前でM修道士と共に、パラマスのトロパリ(讃詞)を歌って祈った。聖人パラマスのかつての祈りと生活の場に立って、その空気を感じつつ濃密な祈りのひと時を過ごしてから、あらためて辺りを眺め回してみると、くすんだ祈祷書に混じって、聖人伝や聖人たちの著作物がそこにはあった。今聖グレゴリオス・パラマスの修道小屋にあって、生涯祈りに徹した聖人の温もりを感じた。
次回予告
2月20日(土)配信予定の「聖山アトス巡礼紀行(2)」は、男だけの船に乗り、いよいよアトスの玄関口ダフニ港を目指します。
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中西裕人写真展「Stavros アトスの修道士」
写真家・中西裕人は、撮影禁止のギリシャ正教最大の聖地であるアトスに、主席大臣より特別に許可を得て、エーゲ海に囲まれた豊かな風景、そこで暮らす修道士たちの祈りを中心とした生活に密着してきた。世界遺産、女人禁制、暦も違う、中世からの生活が色濃く残る知られざる聖地アトスを氏の父でもある日本ハリストス正教会の中西裕一と共に訪れ、貴重な瞬間を収めた。
キヤノンギャラリー全国巡回を経て、2016年2月6日(土)~11日(水)まで、京都ハリストス正教会生神女福音大聖堂 西日本教区センターにて追加開催。
場所 京都ハリストス正教会 生神女福音大聖堂 西日本教区センター
住所 604-0965 京都市中京区柳馬場通二条上ル六丁目283
問い合わせ 075・231・2453 [email protected]
時間 10:00~16:00
入場無料
2月11日(水・祝)13:00~16:00
父、日本ハリストス正教会司祭の中西裕一による特別講演会、ギャラリートーク開催 参加費用500円(申し込みの際は2月7日までに京都ハリストス正教会に直接ご連絡ください)