京都府木津川市で7月18日、日本初のコプト正教会となる聖母マリア・聖マルコ・コプト正教会の開堂式が開催された。
筆者がその式典の見学に行った際、本紙クリスチャントゥデイの土門稔記者と知己を得て、今回コプト正教会についての連載記事を執筆させていただく機会を得た。この場を借りて厚く御礼申し上げたい。
このたびコプト正教会が日本に開設されたことにより、今後コプト正教会と日本の間には長期にわたる関係が構築されていくであろう。これを節目として、連載第1回に当たる今回は、これまでコプト正教会と日本の間の橋渡し役となってきた先達の活動を振り返っていきたい。
7月23日付の記事「日本初のコプト正教会開堂式―京都府木津川市で教派超え100人が参列」で言及されている通り、現時点で木津川のコプト正教会には常駐の司祭が叙任されていないが、昨年の10月までは、コプト正教会に属する日本人の司祭が日本に派遣されていた。2007年8月12日付のカトリック新聞で紹介されている、金崎トーマス司祭である。金崎司祭は、2004年から12年にわたって日本におけるコプト正教会の礎を築くため尽力した人物であるが、去年転属となり、現在はコプト正教会のシドニー教区で司牧活動に従事している。
金崎司祭と筆者の出会いは、筆者が修士課程在籍中の2004年にさかのぼる。共通の知人の紹介で会うことになった金崎司祭は、コプト正教会の司祭たちが皆そうしているように、長いあごひげを蓄え、首から大きな十字架を下げ、トニヤと呼ばれる黒い長衣とインマと呼ばれる黒い帽子姿で、待ち合わせ場所の東京駅に現れた。
当時筆者は、コプト正教会の聖職者を遠くから見たことはあったが、直接会って話すのはその時が初めてで、そのいでたちに何とも言えない戸惑いを感じたことを覚えている(なお、コプト正教会の聖職者の服装を初めて見たときの戸惑いについては、村山盛忠『コプト社会に暮らす』でも吐露されている)。これからコプトの人々に関する研究を行って専門家になるつもりでいるのに情けない限りだと、自分の度量の小ささを嘆いたこともまたよく覚えている。
当時金崎司祭は、エジプトで司祭に叙任され、日本に派遣されて間もない頃で、神戸を拠点に教会堂の開設を目指していた。翌2005年の聖誕祭には、神戸の司祭宅で行われた典礼に参加させていただいたが、その時の参加者は近隣の大学の教員とそのゼミ生など、筆者を含めて日本人が4~5人であった。金崎司祭は、その後も鹿児島、鳥取など主に西日本を拠点にしていたが、これは、コプトの留学生や日本人配偶者を持つコプトが住む町を選んだ結果のようである。
その中で、金崎司祭は月に1度ほど上京して、埼玉や東京のカトリックの教会堂を借りて日曜日に典礼を行っていたが、それにやって来るのは大半がエチオピアの教会の信徒たちであった。筆者は2009年に四谷のカトリック教会で行われた典礼に参加させていただいたが、その際、大半が常連と思われるエチオピア人の信徒が30人ほどと、筆者も含め日本人が5~6人ほどが集まっていた。
よく知られているように、コプト正教会はエチオピア・テワヘド正教会(the Ethiopian Orthodox Tewahedo Church)と歴史的に関係が深く、同教会とフル・コミュニオンの関係にあるため、エジプトのコプト正教会でもエチオピア人の信徒の姿を目にするのは珍しいことではない。
日本では、コプト正教会の信徒よりも、エチオピアの教会あるいはエチオピアから分離・独立したエリトリアの教会の信徒の方が人数が多いため、コプト正教会の典礼や催しではエチオピアの信徒の方が目立つこともある。実際、今回の聖母マリア・聖マルコ・コプト正教会の開堂式でも、子どもに洗礼を授けてもらっていたのはエチオピアとエリトリア出身の2家族であった。
筆者が金崎司祭から伺った範囲で簡単に思い返してみただけでも、金崎司祭の12年にわたる日本での活動は山あり谷ありで、一筋縄ではいかないものであったようだ。しかし、この12年の間に金崎司祭を通してコプト正教会を知った人の数は、多数に上るはずである。
同司祭の活動は、コプト正教会と日本社会の間の架け橋となり、コプト正教会の教会堂開設への道を徐々に開いていったものと思われる。今回の記念すべきコプト正教会の教会堂開設に当たって、まずはこれまでの金崎司祭の活動を記憶に留めておきたい。
金崎司祭の他にも、日本からエジプトに赴き、コプト正教会に深く関わった先達が存在する。1974年に『コプト社会に暮らす』(岩波書店)を刊行された村山盛忠牧師、1987年に『砂漠の修道院』(新潮社)を刊行し、翌年日本エッセイストクラブ賞を受賞された山形孝夫教授、1993年に『コーランと聖書の対話』(講談社)を刊行された久山宗彦教授らである。
紙幅の関係上、各書の内容をここで紹介することはできないが、いずれも著者の方々が宣教師として、あるいは研究者としてエジプトに滞在した経験を基に執筆されている。いずれの滞在も、インターネットが普及する前の1960~80年代に行われている。当時は、コプト社会はもとよりエジプトに関する情報も現在と比べて豊富ではなかった。
その中で、著者の方々はいかにコプトの人々と向き合い、またコプトの人々は彼らをどう迎えたのか。これらの著作は、20世紀後半の日本人が見たコプト社会に関する民族誌として価値が高い。
また、村山牧師は、その後もコプト正教会をはじめとする「東方諸教会」を日本に紹介することに尽力されており、1993年には中東教会協議会著『中東キリスト教の歴史』(日本基督教団出版局)、2014年にはアズィズ・S・アティーヤ著『東方キリスト教の歴史』(教文館)などの訳書を刊行されている。
これらの民族誌的著作群および訳書が、コプト正教会の歴史や宗教伝統、同教会をめぐる政治・社会状況を日本社会に紹介し、日本とコプト社会の間のつながりを紡いできたことについてもまた、ここであらためて指摘しておきたい。
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三代川寛子(みよかわ・ひろこ)
上智大学大学院グローバル・スタディーズ研究科地域研究専攻より、2016年に博士号を取得。専門は、19世紀末から20世紀前半のエジプトにおけるコプト・キリスト教徒の文化ナショナリズム運動。現在、上智大学アジア文化研究所客員所員、オックスフォード大学学際的地域研究学院客員研究員。