「ユーラシア文化サロン 現代ロシアの呪術とキリスト教」と題した講演が7月23日、大阪府中央区の日本ユーラシア協会大阪府連で行われた。日本ユーラシア協会は、1957年に日ソ協会として設立され、1992年に改称してロシアとの民間交流を行っている。
講師は、神戸市外国語大学准教授でロシア文化研究者の藤原潤子さん。藤原さんは、文化人類学的な手法でロシア研究を行い、これまでロシア北西部や東シベリアの調査を行ってきた。『呪われたナターシャ:現代ロシアにおける呪術の民族誌』(人文書院、2010年)、『水雪氷のフォークロア:北の人々の伝承世界』(勉誠出版、2014年、共編著)、『シベリア:温暖化する極北の水環境と社会』(京都大学学術出版会、2015年、共編著)などの著作がある。
藤原さんは、ロシアの文化研究の一環としてロシアの民間信仰や呪術についての研究を行い、2002年から06年にかけて、北ロシアでフィールドワークを行ってきた。現地で研究交流をする中でロシアアカデミーの研究者も呪術を信じていることを感じ、そこから強い興味を持ったという。
ソ連時代、共産党の無神論プロパガンダ政策にも携わっていたロシアアカデミーの研究者から「呪術調査にはモラルが大切だ。集めた資料を活字にすると悪用する人が出てくる。よく考えるべきだ」と多くの「呪い」の事例を説明され、呪術が今でも生きていることを痛感した。そしてなぜ呪術のような「迷信」がリアリティーを持つのか、どのように受け止められているのかについて調査を行ってきた。
ロシアにおける呪術の歴史と現代のブーム
歴史的には、中世から17世紀までは、ロシアでは社会のどの階層でも呪術のリアリティーが信じられており、宗教的・刑事的な罪として死刑になることもあった。18世紀になると呪術の「迷信」化が始まったが、刑事罰としては規定されているというパラドシキカルな状態だった。
19世紀から20世紀初頭になると、社会の上層部では迷信、貴重な民族的な文化遺産と見なされるようになったが、社会の下層部ではリアリティーを持って信じられていた。
ソ連時代には社会主義建設の障害として迫害の対象となり、無神論政策の下、呪術も宗教も「リアリティーがない」「呪術や祈りは効かないのにそれで金もうけをしている」とモラルの観点からも批判され、代わりに科学的世界観が打ち立てられ、教育、農業、医療などあらゆる分野で呪術を排して科学的な手法が推進された。
大きな影響力があった正教会は、教会の破壊、司祭の逮捕などの迫害が行われた。呪術も神の力を用いて行っていると考えられ、同様の迫害を受けた。しかし、社会の片隅では呪術を信じている人々が常にいた。そしてソ連崩壊後に生じた精神的空隙や経済的困窮の中で、宗教の復権にリンクしてオカルトブームが広まり、近年は特にメディアを通じて影響力を非常に増している。
呪術の特徴とキリスト教(正教)との融合
文化人類学では「何らかの目的のために、超自然的・神秘的な存在、あるいは霊力の力を借りてさまざまな現象を起こさせようとする行為、および信仰・観念の体系」と定義される。ジェームズ・フレイザー(1854~1941、『金枝篇』などで知られる民俗学者)は、呪術の特徴として藁(わら)人形・雨乞いなど同じ行為をすれば同じ結果がもたらされるという「類似の法則」と、「髪・爪・衣服などを使い一度離れても神秘的な影響を及ぼし続ける」というような「接触の法則」を挙げた。ロシアの呪術の目的としては恋愛や、病気の治療、農作物の収穫を願うものなどさまざまなものがある。
ロシアの呪術はキリスト教(正教)との混合物という特徴がある。ロシアでキリスト教が導入されたのは10世紀だが、それ以前からあった自然崇拝が混合しているといい、呪術研究は民間キリスト教研究ということもできる。
教会の公式見解では、いかなる呪術も悪魔の力として禁止されているが、一般の人々の間では、呪術には2種類あり、いい目的のための「白呪術」は神の力であり、「黒呪術」は悪魔の力を借りた呪いや罪であると信じられているといい、呪術による治療を多くの人々は、「神様の力を借りて治療するのだ」と信じている。
呪術の方法と基本構造
呪文では「祈り」における「言葉の力」が最も大きな力を持つと信じられている。呪文を「祈り」というロシア語の教会用語を使って表現することも多い。
米国で呪術の歴史的研究をしているW・F・ライアンは「呪術には4つの構造がある」と指摘している。
① 呼び掛け(神や聖母マリア、妖怪など、月や星、あるいは武器など、モノを強くするために呼び掛ける、など)
② 儀礼の描写(起き上がり海に行ってひざまずく、など)
③ 願望(どうなってほしいか。この暖炉が熱くなるように愛する人も私への愛が熱くなるように、など)
④ 〆の文句(アーメンと唱えられることもある)
呪術の体験談から
藤原さんは2002年からカレリア共和国(人口約78万)を中心とするロシア北西部で調査を行っている。ソ連時代は安定した生活だったが、92年のソ連崩壊以降、市場経済化で混乱した社会状態となり、その中で呪術が復活してきているという。
(元エンジニアの女性[当時60歳]の談話から)「私は以前神を信じていませんでした。学校で神など存在しないと教えられたからです。父はコルホーズ議長だったため、祈ることははばかっていました」
この女性は生まれたばかりの長男が3カ月の時にヘルニアにかかり医者に行ったが、幼いため手術をするか迷ったときに、主治医が「息子さんを退院させます。ばあさん(呪術師)を探してください」と言われ、医師が呪術を勧めるのに驚きながら、ジプシーの呪術師の治療を受け、息子は快癒した。
「その後33年間、息子は全く病気をしたことがありません。全くです。以来、私は神を信じ、その他のいろんなものも信じるようになったのです」
このように、呪術を信じることが神を信じることとセットになっている。
呪術を信じるようになるプロセス
人々が呪術を信じるのは、身近な人の促しを通してだという。共産政権時代に無神論政策は行われていたが、社会の片隅には呪術を信じている人は常にいた。その人たちが困っている知人を見ると、呪術師のところに行くことを勧める。
半信半疑で行った人々の状況が偶然好転すると、「呪術のおかげで良くなった」という体験が「物語」として紡ぎ出される。そして「政府は呪術などないと言っているが実はある」と「隠されていた真実」として発見され、広がっていく。
非合理的「体験」の合理化
そして現代ロシア社会には、呪術のリアリティーを支えるさまざまな語り口、装置が存在する。
① 呪術師たちの存在(もし効かないなら、こんなものが伝えられてきたはずがないじゃないかという語り)
②「科学的」根拠
③ 教会復興との連動
④ マスメディア
⑤ 学術研究
⑥ 時空を超えた知識の循環
呪術師とは、どんな人なのか?
藤原氏は、北ロシアで研究調査をする中で「あの村にはすごいおばあさんがいる」といううわさをもとに、実際に訪ねて話を聞いた。
その1人、女性呪術師のポリーナさん(1922年生まれ、当時80歳、元集団農場トラクター運転手、年金生活者)の語り。
「祖母から呪術の力は渡された。その儀式として真夜中に祖母から畑で後ろ向きでライムギをつかめと言われた。さらに風呂小屋で謎の小男(精霊?)が現れ力をもらった。風呂小屋を出ると目の前に聖母マリアが現れた。そして祖母の唾液を呑み込んで力を自分のものとした」
「祖母は『ポリーナ、神様だけを支えとしなさい。もしも悪魔に手を出すと、悪魔はお前を悩ませるだろう』と命じられ、その通りに神様の力でいいことをしてきた」と語る。
病気の治癒など多くの人が訪れる。「祖母から受け継いだ知識は孫に受け渡すつもりだ」という。
「科学的」(とされる)根拠による語り口
呪術はかつては説明不要だったが、近年は「科学的」(ただし、実際には疑似科学)な権威を借りて、それを根拠として語られることもある。「バイオフィールド」「無意識領域の精神エネルギーによる作用」など。
そのように、科学を語ることで無神論と親和的になり、無神論者が呪術に引き込まれていくケースが増えている。
教会復興との連動
また、呪術のリバイバルは教会復興と連動している。2006年の調査では、教会に通う正教徒のほうが呪術を信じる割合が高いという結果が出た。正教会は呪術を絶対に禁止しており、呪術と絶縁をしたいと懺悔(ざんげ、正教会では痛悔機密)に訪れる信徒のための特別な懺悔の儀式がある。
懺悔の儀式では、司祭が「魂と肉を破滅させるオカルト実践との絶縁を望むか?」「オカルト実践は悪魔とのつながりを深めることを認めるか?」と問い、「サタンおよびオカルティズムによるサタンの業と絶縁せよ」と語る。
しかし、このような懺悔においては「オカルト実践を悪魔(サタン)の力であるとして懺悔することで『悪魔』のリアリティーを認めている。教会は、呪術のモラルは否定するが、『呪術のリアリティー』は肯定してしまうことで、この結果、教会の復興とオカルトブームは連動することになっているのが実情」だという。キリスト教が復興すると悪魔のリアリティーも復興する、そして呪術のリアリティーは強まる。
また、「無神論を克服しなければならない」という思考から「良い目的のための呪術は、神の意にかなう科学的実践」と捉え、呪術を行うようになる人も多い。(続きはこちら>>)