那覇市内での主な交通手段は車だ。那覇市から少し離れると、公共バスの姿を見ることはほとんどなく、バスといえば、大型の観光バスばかり。那覇市の中心地では、朝夕の通勤ラッシュだけではなく、一日中、交通渋滞が発生している。普天間あたりまで走っても、交差点近くでまた大渋滞。右を見ても左を見ても、広大な米軍基地が広がっている。しかし、基地内は皮肉なことに渋滞している様子はない。
那覇市の郊外に1957年から伝道を開始した教会があった。日本ナザレン教団那覇教会である。米軍統治下にあった沖縄の地において、シェパード牧師と樋口茂牧師によって、「沖縄の社会における教会を建て上げる」ことを掲げ、開拓された。10年後の1967年には齋藤清次牧師が2代目の牧師として就任。以来48年間、齋藤牧師が同教会を牧会している。齋藤牧師に話を聞いた。
齋藤牧師は、宮城県東松島市出身。思想も政府も何もかもが混乱した戦後、教会へ初めて足を踏み入れた。「初めは、聖書の話を聞きたいとか、賛美歌を聞きたいとか、そういった理由ではなく、教会が分配していた食糧やミルクが目的だったように思います。とにかく貧しかった。何もありませんでしたから」と話す。
しかし、その混乱の中にも一筋の光を見いだして、終戦から6年たった1951年に受洗。神様からの召命を受けて、献身。神学校卒業後、ナザレン名古屋教会に就任した。1959年には伊勢湾台風の直撃に遭い、「命からがら逃げました。近所の方々も多く亡くなりました。本当にひどい台風でした」と半世紀以上たった今も、その恐怖を語る。
仙台、長崎とナザレン教団からの任命によって転任。1967年に那覇教会に就任した。「私は宮城の出身ですので『内地』の人間ですが、15年前に召天した妻は、沖縄の人でした。子どもたちも沖縄で育ちました。もう沖縄が私の故郷のようなものですね」と、「かりゆし」をすっかり着こなし、笑顔で話した。
就任した当時は、給与も沖縄に駐在する米国人宣教師を通してドル建てでもらっていた。沖縄における宣教は、米国にあるナザレン教団本部のサポートがあったが、全て宣教師の指示のもとで行っていた。「このままではいけない。日本の教団として独立した教会を」と思ったという。
沖縄に就任した当初は、「沖縄は日本ではないけれど、アメリカでもない場所だと感じていた」と齋藤牧師は話す。当時は、宣教師の他、多くの外国人牧師と共に教会の運営を行っていた。
「私が那覇に任命されたのも、多少ですが英語ができたからでしょう。東松島には米軍に接収された基地がありました。私は戦後、そこで働いていたので、日常会話程度の英語を話すことができました。48年がたった今思うのは、全ては沖縄に通じていたということですね。神様のご計画は、牧師になってから立てられたのではなく、そのずっと前から始まっていたのですね」と話す。
聖会が東京であるときは、那覇を離れ、九州まで船で渡り、九州から電車で向かったこともあった。「当時、東京は本当に遠かった」という。沖縄を離れるとき、「内地」出身の齋藤牧師には米軍からたくさんの書類が届き、「税金の払い残しはないか」など厳しくチェックされた。
1972年に沖縄が日本に返還されると、町も行政も変わった。それまで軍が統治していた沖縄には、沖縄県議会が発足、県知事が選ばれ、県庁も作られた。交通システムも変わったために、交通事故が多発した。
返還から40年余りがたったが、沖縄の苦悩と混乱は続いている。「沖縄から東京を見ると、『沖縄で起きているさまざまなことを、南の国のお話だと思っていないか』と考えてしまいます。きっと、軍属が起こすさまざまな事件、基地問題に揺れる沖縄の各地、軍用機が夜でも飛び交い、その音に悩まされる県民のことを、東京の人たちは遠い国のお話だと思っているのでしょうね。日本政府も日本の国民も、もっと沖縄に寄り添ってもよいのでは」と話した。
80歳を超えた齋藤牧師。「これからもずっと那覇に?」の質問に「そうですね。やり残したことはまだまだあります。沖縄は本島だけでなく、離島がたくさんある。ナザレン教会が離島にはないのです。離島にもナザレンの教会を作りたいと願い、祈り続けてきましたが、いまだそれはかなっていません。一方で、沖縄本島には6つのナザレン教会が建て上げられました。感謝ですね」と話した。
48年間、沖縄の宣教にささげてきたウチナンチュの齋藤牧師。「御言葉を語るのに、ウチナンチュもヤマトンチュもない。神様の言葉は生きているのですから。われらの国籍は天国にありますからね」と笑顔を見せた。さまざまな苦難に遭いながらも、「独立した日本人のための日本の教団を」と固く決心し、今もなお沖縄と日本の宣教のために祈りをささげ、仕えている。