1931年(昭和6年)の満州事変を機に日本の歴史には、日中戦争、太平洋戦争へと続き、1945年8月15日の終戦を迎えるまで、「15年戦争」と呼ばれる時代があった。満州事変の翌年1932年、大分県別府市に生まれ、混乱の戦中・戦後を生き抜き、今もイエスの福音を世に伝えようと、千葉県にある日本ナザレン教団五井教会の講壇に立つ松本真平牧師に話を聞いた。
松本氏は、1938年に当時の小学校(後の国民学校)へ入学。別府市は風光明媚な観光地でもあり、また軍需工場などもなかったことから、空襲などの大きな被害はなかったが、物は不足していた。「食べるものがなかった。芋づるや芋などを時々食べては、お腹を満たしていました」と当時のことを話す。学校では教育勅語などの唱和もあり、天皇陛下は「神」とされ、国のために勤しむことを誰も疑うことなく生活していた。
その後、旧制中学に進むころ、クリスマスや主な行事の時には、家の近くの教会に通うようになった。その教会は、後の日本ナザレン教団別府教会。「当時、クリスマスなどの礼拝には、子どもが30人くらいいたように記憶している」と松本氏。太平洋戦争に突入すると、キリスト教徒にとってますます「生きづらい」世の中になる。
教会学校の賛美歌にも戦意向上を目的とした歌詞が入れられたり、カリキュラムにも戦争を美化するような内容が盛り込まれた。思想犯を取り締まるため、礼拝には、特別高等警察が内容を確認するように会堂の後ろでメモをとることもあった。教会で戦勝祈願することも多かった。
「みんなやりたくてやっていたのではない。もちろん、真の神様を皆、礼拝していた。しかし、この国に『信仰』を残すため、やむなく『妥協』したのです」と松本氏。「後に聞いた話によると、当時の牧師の代表の中には、やむなく伊勢神宮を参拝させられた方もいらっしゃったようです。どんなに苦しんだでしょう。苦渋の妥協だったと思いますよ」と、当時の牧師と自分の姿を重ね合わせるように、その胸のうちを明かした。
昭和のキリスト教弾圧はますます悪化し、当局に捉えられ、殉教する牧師も続出した。「戦国時代のキリシタン弾圧、昭和に入ってからのキリスト教弾圧で、殉教者の数は、今も世界で日本が一番多いのです」と松本氏は語る。
旧制中学2年生の時、終戦を目前にして、「学徒動員」で、別府近郊の飛行場建設に携わることになる。当時13歳。栄養も十分ではなかったが、「お国のため」に働く日々が続いた。「今から考えれば、飛行場なんて作っても意味がなかった。飛ぶ飛行機がないんだからね」と微笑みながらも、少し悲しそうな表情を見せた。隣の大分市が空襲を受けている様子を別府の山から見ていたという松本氏。「その日も食料がなくて、山に野いちごを取りに、友人と登っていました。景色を眺めていると、遠くの方から火が上がり、空襲があったんだと思いました。恐ろしいことが日本に起きていると実感しました」と話す。それから間もなく終戦を迎える。玉音放送は、近所の人たちと集まって聞いた。ラジオの音は良く聞こえず、陛下の話す言葉も自分たちが話す言葉とは違ったように思い、はっきりとは理解できなかったが、「あっ、戦争が終わったんだな」とだけ感じたという。
その後の日本の混乱は凄まじかった。軍国主義から一気に民主主義へ。何が正義で、何が正しいのか。これから日本はどうなるのか。みんなが不安の中にいた。そんな中、松本氏は、それまで教会学校などには行っていたものの、真理を見い出し、高校3年生の春に受洗。当時は、受洗者の数も多く、「一種のブームのような気がした」と話す。受洗後、教会学校の教師として奉仕。歌集や聖書も数は少なかったが、みんなが一緒に聖書を見たり、数が足りないときは手書きで歌集を写して礼拝を守った。「当時、教会学校にいた子が今では牧師になっているんですよ。もう、いいおじさんになっていますが」と嬉しそうに話す。
「『平和を実現する人々は、幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる』(マタイ5:9)と聖書にあります。今の日本を見ていると、まるで戦前のようです。何か戦争に向かっているような気がしてならない。私は、この平和な日本がいつまでも続くよう祈っています。平和であれば、イエス様の福音を語るのも、神様を賛美することも自由にできる」と松本氏。「平和とは何か?」と問うと、「戦争をしないこと」とシンプルな言葉で答えた。戦後69年、これからも神の守りと祝福がこの国にあるように。