はじめに
沖縄の歴史を知ることなしに、日本の歴史を正しく理解することは困難です。沖縄の差別と苦難の歴史を学ぶことによって、私たちは日本が歩んできた道を知ることができます。沖縄の過去の事実と現状を知り、沖縄から日本、世界を見ることが、日本人にとって、特に教会人にとって、今必要なことです。なぜなら日本の歴史は沖縄との関係において最もよく現れているからです。1609年の「薩摩の侵略」以来、1872年の「琉球処分」、戦時の捨て石政策と続き、今日の辺野古へと連動しています。
「敗戦」の事実を真摯(しんし)に受け止めよう
8月15日は「終戦記念日」です。事実は敗戦ですが、事実がどうであっても、日本の国は自国の「非」や「負」の歴史を明らかにすることなく、常に国の正当性を主張します。太平洋戦争は本当に正しかったのか、間違ってはいなかったのかを深く吟味、反省することもなく、戦後も国は絶対に正しく、皇軍は間違ったことはしないという固定観念で進んでいます。
「皇民化教育」は戦後も続いている
戦傷病者戦没者遺族等援護法(1952(昭和27)年4月1日より適用)という法律があります。一般住民の死者がこの援護法の適用を受けようとする場合、遺族は市町村役場を通して「戦闘参加申立書」を県の援護課に提出します。その場合、関係者の現認証明書を「死の状況」として添付するのですが、援護金を受給できるようにするためには、事実はどうであれ、「皇軍に協力」したという形式を取るのです。たとえば、日本軍によって壕(ごう)を追い出されて死んだ者は「壕提供」、食料を奪われて餓死した者は「食料提供」をしたとします。このように事実を曲げても皇民化政策が優先し、大本営発表によって、事実は日本軍が負け続けている戦闘も、勝ち続けていると報道し、一億国民を騙(だま)し続けたのです。このようなことは2度と繰り返さない、繰り返させないと一人一人が決断することが、戦後70年の意味です。
「屈辱の日」に耐える県民の心情
1951年9月8日、敗戦国日本は連合国(48カ国)とサンフランシスコ平和条約(対日講和条約)を結びました。この条約によって日本は、被占領状態から抜け出して主権を回復しました。しかし、この条約の第3条によって沖縄と日本の行政は分離され、日本は独立しましたが、沖縄は引き続き米国の直接統治に置かれる捨て石となりました。1952年4月28日にサンフランシスコ平和条約が発効し、米国の沖縄統治が始まったのです。この条約が日本の国会で承認されたとき、沖縄からの議員は一人もいませんでした。沖縄の意思は全く無視されて、この条約は締結されたのです。それ故、沖縄では1952年以降4月28日は「屈辱の日」としています。
「本土復帰」の実現を目指す県民
この屈辱は27年間も続き、県民も「なぜ沖縄だけがこのような差別と苦難を受け続けるのか。これは決して平等ではない」との怒りと自覚が次第に強まり、法の下の平等を求め、本土復帰の希望に目覚め、「復帰運動」は大きなうねりとなりました。そして、日米政府の合意によってついに1972年、「沖縄の本土復帰」は実現しました。しかし、「核抜き、本土並み」の平和国家の夢は崩され、軍事基地はそのまま残り、県民は復帰後も「日米地位協定」によって基地被害を受け続けています。このように県民の平和憲法への復帰の期待は裏切られています。
『標的の村』が示す基地拡大の現状
三上智恵監督のドキュメンタリー映画『標的の村』は、沖縄北部東村(ひがしそん)の高江集落の周りに、オスプレイのヘリパッドの基地を造りつつある現状を取材した映画です。この映画を見た女学生たちの涙ながらの叫びを、沖縄国際大学の前泊博盛教授は次のようにまとめています。
「どこまで虐げられ続けるんですか」
「なぜ止められないんですか」
「国民の命よりも大切な安保っておかしくないですか」
「どうしてこんなことが許されるんですか」
「どうしていつも沖縄なんですか」
「この国って何ですか」
「これからの日本」に開かれた道
「敗戦」という歴史的な事実と真摯に向き合うとき、①軍国主義国家権力からの解放、②人類絶滅の危機をもたらす核兵器からの解放、③人類最大・最後の敵である戦争からの解放という未来が見えてきます。敗戦というピンチを、日本は「国際平和のリーダー国」としてのチャンスに変えるよう、神に選ばれているのではないでしょうか。日本人は知的、精神的、道徳面において優れた民族であり、世界に平和を拡大する国として神も期待しておられると思います。それは、日本には、①世界唯一の平和憲法があり、②世界唯一の原爆の被爆国であり、③世界唯一の「平和の礎(いしじ)」があるからです。
「平和の礎」には沖縄戦で犠牲になった24万人余りの名前が大理石に刻銘されています。そこには軍人と住民との差別、男と女の差別、日本人と外国人の差別、敵と味方の差別さえなく、皆等しく「沖縄戦の犠牲者」として刻銘されています。それは、外国人や異民族が敵ではなく、地球より重い、尊い人間の命を平気で殺す「戦争」こそ、人類共通の敵である事実を今に語り、未来に伝えています。
「憲法9条」を再確認し、死守しよう
今年は戦後70年の節目に当たる年であり、イスラエル民族が70年間のバビロン捕囚から解放されたように、日本も戦争から解放され、平和外交に徹する恒久平和国家として新しく出発する時です。沖縄地上戦で見えたものは「軍隊は住民を守らなかった。基地は住民の命を危険にさらした」ということです。
慶良間(けらま)諸島の前島という小さな島に日本軍が陣地を造ろうとしたとき、当時の小学校の分校長が反対して基地を造らせなかったのです。間もなく米軍がやってきて、島に軍隊も基地もないことが分かると、そのまま通り過ぎていきました。そして、隣の渡嘉敷(とかしき)島に向かったのですが、そこには軍隊がいて、基地があったので多くの尊い命が奪われただけではなく、あの「集団自決」(強制集団死)という恐ろしい悲劇が起きたのです。
「平和をつくる」使命が日本国民にある
戦争推進のためにいかなる大義名分を設けても、戦争の実態は人間同士の殺し合いであり、最悪の悲劇です。かつての同盟国であったドイツは、過去の戦争を深く反省し、悔い改め、国旗も国家も変え、新生ドイツとなりました。現在、日本も憲法9条によって軍隊を保持しない平和国家であると世界に宣言しています。ですから日本は、米国に追従して戦争を世界に拡大せず、主体的に9条を盾に平和を世界に拡大する国家的器となるのです。それが、かつて琉球王国が旨とした「万国津梁(ばんこくしんりょう)」の魂であり、今日の沖縄県民の心です。全ては憲法9条が根拠です。ですから、この9条を変えようとする動きが強くなりつつある現状は、日本の危機です。この正念場に私たちは今一度ニーメラー牧師の叫びを聞きたいと思います。
マルティン・ニーメラーの言葉
ナチスがコミュニスト(共産主義者)を弾圧したとき、私は不安に駆られたが、
自分はコミュニストではなかったので、何の行動も起こさなかった。
その次、ナチスはソーシャリスト(社会主義者、労働組合員)を弾圧した。
私はさらに不安を感じたが、自分はソーシャリストではないので、何の抗議もしなかった。
それからナチスは学生、新聞人、ユダヤ人と、順次弾圧の輪を広げていき、
そのたびに私の不安は増大したが、それでも私は行動に出なかった。
ある日ついにナチスは教会を弾圧してきた。
そして私は牧師だった。
だから行動に立ち上がったが、その時は、全てがあまりに遅過ぎた。
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国吉守(くによし・まもる)
1933年沖縄県に生まれる。沖縄戦で両親を失い戦争孤児となる。戦争体験を通してキリスト教に興味を持ち、教会に導かれ入信する。その後、献身し日本基督神学校(後に東京基督神学校)卒業。現在、那覇バプテスト教会主任牧師、善隣幼稚園園長、沖縄聖書学園理事長、「沖縄いのちの電話」理事長、特別養護老人ホーム「愛の村」理事長。