70回目の原爆の日を迎えた8月6日、広島では各所で早朝から深夜まで、さまざまな人々がそれぞれの思いで、平和を願う祈りをささげた。
<宗教者平和の祈り> 午前6時15分
8月6日朝、午前6時15分からは広島平和記念公園内の原爆供養塔前で、「宗教者平和の祈り」が行われ、神道、仏教、キリスト教からの各宗教者が献花を行い、祈りをささげた。
<原爆・すべての戦争犠牲者追悼ミサ> 午前8時
午前8時からは、カトリック幟町教会・世界平和記念聖堂で、「原爆・すべての戦争犠牲者追悼ミサ」が行われた。
原爆が投下された午前8時15分には、聖堂の上の鐘が大きく鳴らされ、会衆は1分間の黙祷をささげた。教会の隣の木々にとまったたくさんのセミの声だけが、ジィージィーと静寂に包まれた聖堂の中に響き渡った。黙祷が終わると、レクイエムの歌声と共にミサが始まった。
やすらぎを とわの(やすらぎを) 与えたまえ かれらに 主よ
また絶えざる光を 照らしたまえ かれらの上に
集会祈願では、次のような祈りがささげられた。
「永遠の生命(いのち)の源である神よ『戦争は死です。戦争は生命の破壊です』との言葉を心に刻んで祈ります。原爆と全ての戦争の犠牲者のためにささげる私たちの祈りに耳を傾け、彼らに永遠の安息をお与えください。聖霊の交わりの中であなたと共に世々に生き、支配しておられる御子、私たちの主イエス・キリストによって。アーメン」
この日の説教は、イエズス会の林尚志神父が行った。
「セミも鳴くのをやめないでほしい。70年前、広島ではセミも人間も生きとし生けるものは死に絶えた。しかし70年たっても、人間の業である戦争はまだ起きている。全ての戦争で命を奪われた者に、安らかにというより、すみませんでしたと言いたい。
広島の川に70年前、真っ黒な死体となって積み重なった人々の叫びを、心の一番深いところでもう一度聞きたい。そして新しい希望と愛を持っていきたい。
世界は格差と排除に覆われている。あの真っ黒な死体となった人々の姿を思い出すたびに、この世界の現状に『それではだめなんだ』『それはあの人たちの生き方、死に方を認めないことなんだ』と新しく始めていきたい」
そして、原爆詩人として知られる峠三吉の『原爆詩集』から、「にんげんをかえせ へいわをかえせ」と述べ、再び「セミもどうか鳴き続けてほしい。そして私たちも新しい道を歩み続けましょう」と述べた。
その後、アッシジの聖フランシスコによる「平和の祈り」が唱和され、最後には、平和を勝ち取る願いを込めて、「WE SHALL OVERCOME(勝利を我等に)」が歌われ、ミサは幕を閉じた。
<ピースメッセージ> 午前9時半
午前9時半からは、米国など海外から来日した司教団によるピースメッセージが読み上げられた。
<キリスト者平和の祈り> 午後2時
午後2時からは、「キリスト者平和の祈り」が行われ、プロテスタントの諸教派の教職者・信徒と、カトリックの聖職者・信徒が平和実現のために共に祈りをささげた。
<原爆犠牲者のためのスピリチュアルコンサート> 午後6時
午後6時からは、世界平和記念聖堂で、「原爆犠牲者のためのスピリチュアルコンサート」が行われ、教会に隣接するエリザベート音楽大学同窓会によるレクイエムの演奏・合唱が行われた。
同聖堂は、国内外の多くの支援によって、1954年8月6日に建設された。その当日の献堂式で歌われたのが、ガブリエル・フォーレ作曲の「レクイエム」だった。以来この原爆の日に、同大全学生によって演奏され続けてきたが、時代の変遷により途絶えてしまった。しかし、残念がる卒業生や市民からの声を受けて、2004年から再び、毎年演奏されるようになったという。
聖堂の席は、子どもから高齢者まで全て埋まり、聖堂の入り口には立って耳を傾ける人の姿も見られた。
この日配布されたプログラムによると、「レクイエム」は「安息を」を意味し、死者のためにささげられるミサであり、入祭唱の冒頭のラテン語「Requiem aeternam dona eis, Domine!(主よ 永遠の安息を彼らにお与えください)」の初めの単語「Requiem」に由来するという。
コンサートでは、「神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない」(黙示録21:3〜4)が引用され、「彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってください」と祈るよう呼び掛けられていた。
<キリスト者平和の集い> 午後8時15分
平和公園の供養塔では午後8時過ぎから、広島市キリスト教会連盟主催で、「2015 キリスト者平和の集い」が行われた。
同連盟には、日本基督教団、バプテスト、ホーリネス、ナザレンなど、幅広い教派が参加しており、1953年から毎年8月6日にこの集いを行ってきた。
黙祷がささげられた後、ヒロシマハンドベルリンガーズの女性たちによる演奏が行われた。また、小野紀美子さん(日本基督教団広島西部教会員)によって被爆体験談が語られた。
小野さんは7歳の時、爆心地から4キロの古田国民学校で被爆した。戦争中について、「いつもひもじさで胃袋が鳴っていた。学校で出されたおからをかじっていると、ひよこの足が出てきて、とてもそれ以上食べられなかった」などと振り返った。
黒い雨を浴びた様子も語り、「被爆で腕にケロイドができて母を恨んだ。しかし友人の女性は、顔にケロイドを負いました。それから毎朝鏡を見るたびに、顔のケロイドを見ながら眉をかく。それがどれだけつらかっただろうか。被爆から17年後に、家族が白血病で倒れた人もいた。その心中を思うと、どうしてもお見舞いに行って顔を合わせることができなかった」と話した。
また、「『過ちは繰り返しませぬから』という言葉を、どれだけの人々が本当に決心しているでしょう。核という悪魔のようなものと手を切らないと、また同じことを繰り返すのではないかと思います」と語った。
そして最後には、アッシジの聖フランシスコの「平和の祈り」が、その場にいる全ての人によって祈られた。
主よ、あなたの平和のうつわとならせてください
憎しみのあるところには、愛の種をまき、
間違いのあるところには、ゆるしを、
うたがいのあるところには、信仰を、
のぞみのないところには、希望を、
暗いところには、光を、
苦しみのあるところには、喜びを、
もたらすものとならせてください。
いつくしみ深き父よ、
慰められることを求める人よりは、人々を慰める者に、
理解されることよりも、理解する者に、
愛されることよりも、愛することのできる者に、ならせてください。
与えることによって、真に受けるのであり、
ゆるすことによって、ゆるされ、
主にあって死ぬことを通してこそ、
永遠に生きることが出来ることを、信じます。アーメン
<灯籠流し> 午後10時
日が暮れると、原爆ドーム(当時、広島県産業奨励館)の脇を流れる元安川に架かる相生橋は、大変な人混みでごった返していた。たくさんの人たちが携帯のカメラを川岸に向けている。灯籠流しだ。
灯籠流しは、死者の魂を弔って、灯籠やお盆の供え物を海や川に流す行事として、日本各地で行われている。
広島では、まだ辺りはヤミ市がにぎわい、中心部にやっとバラック建ての商店が建ち始めた1947、48年ごろ、親族や知人を原爆で失った遺族や市民たちが追善と供養のため、手作りの灯籠を川に流したのが始まりといわれている。毎年この日には、6つの川で、1万個以上の灯籠が流されるという。
若いカップル、バックパッカーの若者たち、外国人の観光客、親子連れ、一人でたたずむお年寄り。たくさんの人に混じり、灯籠を眺めていると、周りの人たちの会話が耳に聞こえてくる。
年配のおばあさんが、孫の小さな女の子の手を引きながら話し掛けている。「70年前、おばあちゃんはまだ女学生でね・・・」。女の子は川原の幻想的な風景を見ながら聞いている。
8月5日、6日の2日間、炎暑の中、広島のあちこちを汗水垂らして歩き回った。カトリック、プロテスタント、あるいはその他の宗教、平和団体、個人、さまざまな人が無数の場所で、さまざまな祈りをささげ、さまざまな訴えの声を上げていた。
全てに共通するのはただ一言。「平和を」だった。