即刻従順
「翌朝早く、アブラハムはろばに鞍をつけ、ふたりの若い者と息子イサクとをいっしょに連れて行った。彼は全焼のいけにえのためのたきぎを割った。こうして彼は、神がお告げになった場所へ出かけて行った」(創世記22:3)
アブラハムの従順は「即刻従順」でした。アブラハムは朝早く起きて、いけにえをささげる場所に向けて旅立ちました。彼は神様の命令に従うのに全く躊躇(ちゅうちょ)しませんでした。このように私たちも神様の命令を聞いてから、悩んだり、躊躇したりしてはいけません。
神様がソドムとゴモラを火と硫黄で裁かれるとき、ロトの妻がためらいつつ振り返ってしまって、塩の柱と化したことを忘れてはなりません。ヨナが神様の命令に従わず、ニネベではなくタルシシュへと向かう船に乗って、嵐に遭い、結局海に投げ込まれて魚のお腹の中に閉じ込められた事件のことを忘れてはなりません。
全てに恵まれる祝福とは、神様の御言葉が人生全体をつかさどることです。神様の御言葉なら、即刻従わなければなりません。すぐに従う者に全てに恵まれる祝福が臨むのです。
アブラハムは神様からの命令を受けたとき、その命令について他人に相談しませんでした。実際に神様はその命令をアブラハムにだけ与えられたので、妻のサラや他の人々に相談するようなことではありませんでした。
もしアブラハムが人々に相談したなら、みんなが大騒ぎをして反対したことでしょう。仮にアブラハムがイサクをささげる問題を妻サラに相談したなら、サラの反対に遭って家を出るのも難しかったことでしょう。
それだからアブラハムは神様の御旨に従うことにおいて、誰にも相談せず、すぐに行ったのです。完全な従順のためには言い訳になりそうなものを全て遮断しなければなりません。
ところが、私たちはどうですか。「何日間か祈ってみます」「私にも考える時間を少しは下さい」と言います。考えるからといって、従えるわけではありません。考えてみたいと話した人が従う場合はほとんどありませんでした。
考えてみると答えておいて、逃げ道を探ります。いろいろ探ってみて、どうしても方法が見つからなければ、その時になってやっと仕方なく従います。これは厳密に言って、従順ではありません。
サウル王はアマレクの全てを滅ぼすようにとの神様の命令に対し、「なぜ動物まで殺すようにおっしゃるのだろうか」と思いながらためらいました。そして良い物は殺さずに隠して連れて来たため、結局王の地位を奪われ、神様の愛も受けられなくなってしまいました(Ⅰサムエル15章)。神様の御言葉には即刻、そして無条件で従うことが全てに恵まれる祝福を受ける秘訣です。
『私の隠れ場』という本を書いたコーリー・テン・ブーム(Corrie Ten Boom)の家族は、ユダヤ人たちをかくまったという理由で逮捕され、ドイツで第2次世界大戦が終わるまで収容所生活を送りました。
ラベンスブルグ(Ravensbruck)にある残酷な収容所で家族はみな死に、ドイツの敗戦により彼女だけが奇跡的に生き残りました。収容所から出てきた彼女の心の中に、神様は1つの使命を下さいました。それは、彼女を迫害し、家族を残酷に殺したドイツの人々に神様の御言葉を伝えるということでした。
彼女は神様の御旨に従ってドイツの町と都市を訪ね歩きつつ、証し集会を開きました。神様は彼女の証し集会を通して、罪悪感にとらわれていた数多くのドイツの人々に罪からの自由を得させ、多くの人々が神様の元に帰って来るという素晴らしいリバイバルの御業を行われました。
ある日、コーリーがドイツの田舎町で御言葉と証しを全て終えて、人々とあいさつをしていると、彼女の全身を凍りつかせる人がそこにいました。その人は収容所で悪名高かった刑務官で、コーリーの実の姉が死ぬのに決定的な役割を果たした人でした。
コーリーは夢の中でも忘れることのできなかったその人の顔を見て、血が逆流するように感じ、主に心の中で何度も次のように叫んだといいます。
「神様、あの人だけはダメです。あの人だけは赦(ゆる)すことができません。できません。あの人だけはダメです」
しかし、神様は彼女がダメだと叫ぶたびに、続けて、「愛しなさい。これは命令です」とおっしゃられました。繰り返される神様の御言葉を前に、コーリーは次のように告白しました。
「神様、私にはあの人を愛したいという気持ちがありません。愛する勇気もありません。しかし、主の命令ならばやってみます」
いつの間にかその刑務官が前に立ったとき、彼女は愛情を込めずに彼に手を差し伸べ、彼を抱きしめました。ところがまさにその瞬間、神様はコーリーの心にその刑務官を愛することのできる十分な感情を注がれました。
コーリーは正直言ってその刑務官を愛することはできませんでしたが、神様の命令を前にして従うことを決断すると、愛することのできる力をその瞬間に神様が注がれたのです。
ためらっていると言い訳ばかり増えます。「即刻」という言葉は、「考える間もなく」という意味です。アブラハムは考える間もなく無条件で従いました。まことの従順とは、深く考えてから行うことではなく、まず行動に移してから考えることです。
アブラハムのように、言い訳する機会自体を持たないことです。従順のタイミングは「即刻」です。御言葉を聞き、悟ったなら、「即刻」従わなければなりません。
即刻で従順したアブラハムは、3日間の道のりを歩いて行きました。
「三日目に、アブラハムが目を上げると、その場所がはるかかなたに見えた」(創世記22:4)
ここで私たちは「三日目に」という時間に注目しなければなりません。3日間、アブラハムはどんなことを考えたでしょうか。3日という時間はこれまでの従順を覆すのに十分な時間でした。しかし、その三日間はアブラハムにとって自分をもっと降ろし、もっと砕かれることで、神様の力が現れることを慕う時間でした。
彼は3日間、徹底的に神様の前で砕かれ、自分自身を否定したことでしょう。これがまさにキリスト者が世の中に打ち勝つ方法です。十字架に自分の情欲と欲望を釘付けにし、自分自身を否定するとき、復活されたイエス・キリストの力が宿るようになるのです。
「兄弟たち。私にとって、毎日が死の連続です。これは、私たちの主キリスト・イエスにあってあなたがたを誇る私の誇りにかけて、誓って言えることです」(Ⅰコリント15:31)
従順とは、神様の召しと御旨が私たちにとってまことの益となることを疑わず、信仰によって即刻実行に移すことです。信仰で即刻従順すれば、神様に仕えることがどれほど楽しくてうれしいことかを悟るようになります。即刻従順こそ、将来の相続財産を受ける、全てに恵まれる人生を歩むための近道です。
「信仰によって、アブラハムは、相続財産として受け取るべき地に出て行けとの召しを受けたとき、これに従い、どこに行くのかを知らないで、出て行きました」(へブル11:8)
(イ・ヨンフン著『まことの喜び』より)
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【書籍紹介】
李永勲(イ・ヨンフン)著『まことの喜び』 2015年5月23日発行 定価1500円+税
苦難の中でも喜べ 思い煩いはこの世に属することである
イエス様は十字架を背負っていくその瞬間も喜んでおられました。肉が裂ける苦しみと死を前にしても、淡々とそれを受け入れ、後悔されませんでした。私たちをあまりにも愛しておられたからです。喜びの霊性とは、そんなイエス様に従っていくことです。イエス様だけで喜び、イエス様だけで満足することを知る霊性です。神様はイエス様のことを指し、神の御旨に従う息子という意味を込めて「これは、わたしの愛する子」(マタイ3:17)と呼びました。すなわち、ただ主お一人だけで喜ぶ人生の姿勢こそが、神の民がこの世で勝利できる秘訣だということです。
(イ・ヨンフン著『まことの喜び』プロローグより)
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