神様だけが私の全てです
「これらの出来事の後、神はアブラハムを試練に会わせられた。神は彼に、「アブラハムよ」と呼びかけられると、彼は、「はい。ここにおります」と答えた。神は仰せられた。「あなたの子、あなたの愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そしてわたしがあなたに示す一つの山の上で、全焼のいけにえとしてイサクをわたしにささげなさい」(創世記22:1、2)
神様はアブラハムを試みに遭わせました。アブラハムは全てに恵まれる人生を生きた人でしたが、だからといって彼に危機的状況がなかったわけではありません。全てに恵まれる人生を生きるというのは、苦難がないことを指すわけではありません。
試みや苦難のないことを「全てに恵まれる」と呼ぶなら、アブラハムは全てに恵まれる人生を生きた人ではありません。全てに恵まれる人生とは、神様の御旨が私たちの人生において滞りなく成されていくことを意味します。
アブラハムが試みに遭った話は、神様の御旨がアブラハムの人生においていかに滞りなく成されているかを示しています。神様がアブラハムを試みられたのは、アブラハムが神様よりも独り息子のイサクを愛していないかを知るためでした。神様は、「あなたの愛しているひとり子イサクを全焼のいけにえとしてささげなさい」と命じられたのです。
アブラハムが100歳の時に生まれた独り息子のイサクを大変愛していたことは、間違いありません。父親が息子を愛するのは当然のことです。しかし、神様よりも息子を愛するときに問題になるのです。
一番重要なのは、神様を第一とすることです。絶対にこの順番が変わってはいけません。それで今でもイスラエルの人々は子どもたちが言葉を習うとき、最初に申命記6章4節から5節までの御言葉を教え、暗唱させます。
「聞きなさい。イスラエル。主は私たちの神、主はただひとりである。心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」(申命記6:4、5)
時々、人々は贈り物を下さった神様のことよりも、贈り物の方を愛したりします。しかし、人生において神様を第一とし、唯一の主なる神様に仕えることが重要です。これは、しもべが2人の主人に仕えることができないのと同じ理です。
「しもべは、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、または一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません」(ルカ16:13)
それで神様はアブラハムに対して、彼がこの世で最も愛している独り息子のイサクをささげるようにおっしゃったのです。このように神様は、私たちが本当に大事にしているものを求められるときがあります。神様の試みが、私たちの人生において最も大事にしているものを諦めるという形でやってくるときがあります。
私たちの心の中に、神様よりも愛し、大事に思っているイサクがいるなら、それを「降ろさなければ」なりません。神様は、まず私たちの心の中にいるイサクからささげるようおっしゃるからです。
『降ろすこと』の著者、イ・ヨンギュ宣教師は、ソウル大学東洋史学科と同大学院を卒業し、米国のハーバード大学において中東地域学および歴史学で博士学位を得たエリート中のエリートでした。
ところが、彼は学位を授与されるや否や、安らかな未来の保障や周りの期待を全て降ろしました。主が宣教師として呼ばれたからです。イ・ヨンギュ宣教師は、「神様お一人だけで満足します」と告白し、家族と共にモンゴル宣教師としての人生を始めました。
米国のボストン・ケンブリッジ連合長老教会から平信徒宣教師派遣を受けて献身生活を始めたイ・ヨンギュ宣教師は、韓国の「5つのパンと2匹の魚宣教会」がモンゴルのウランバートル(Ulaanbaatar)に設立したイルエ教会を担当し、モンゴルのクリスチャン大学であるモンゴル国際大学(Mongolia International University)内の「チンギス・ハーン研究所」の所長兼同大学教授としてモンゴル帝国史を講義しました。
イ・ヨンギュ宣教師は、「降ろすというのは、自分自身を空にし、神様で満たす人生の決断」と言っています。また、神様が降ろすようにおっしゃっている理由は、私たちが降ろすときにこそ、それが本当に私たちのものとなるからであり、神様が私たちにもっと良いものを下さろうとしているからだと言っています。
彼は自分の空になった心を神様で満たすとき、やっと幸せになることができると告白しています。「あなたが降ろせば、神様が動いてくださる」
「あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる」(詩篇37:5)
(イ・ヨンフン著『まことの喜び』より)
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【書籍紹介】
李永勲(イ・ヨンフン)著『まことの喜び』 2015年5月23日発行 定価1500円+税
苦難の中でも喜べ 思い煩いはこの世に属することである
イエス様は十字架を背負っていくその瞬間も喜んでおられました。肉が裂ける苦しみと死を前にしても、淡々とそれを受け入れ、後悔されませんでした。私たちをあまりにも愛しておられたからです。喜びの霊性とは、そんなイエス様に従っていくことです。イエス様だけで喜び、イエス様だけで満足することを知る霊性です。神様はイエス様のことを指し、神の御旨に従う息子という意味を込めて「これは、わたしの愛する子」(マタイ3:17)と呼びました。すなわち、ただ主お一人だけで喜ぶ人生の姿勢こそが、神の民がこの世で勝利できる秘訣だということです。
(イ・ヨンフン著『まことの喜び』プロローグより)
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