3日間の道のりを歩いてモリヤ山に到着したアブラハムは、山に登る前にしもべたちに次のように言いました。
それでアブラハムは若い者たちに、「あなたがたは、ろばといっしょに、ここに残っていなさい。私と子どもとはあそこに行き、礼拝をして、あなたがたのところに戻って来る」と言った。(創世記22:5)
アブラハムはしもべたちに対して確かに、「私と子どもとは」戻って来ると言いました。この言葉は、これまでアブラハムが歩んできた人生の全てを示すような信仰の告白でした。アブラハムは100歳の時に下さった息子イサクを神様が取り去られても、再び与えてくださることを信じたのです。すなわち、3日間の道のりを歩きながら黙想した結果として出てきたアブラハムの最初の一言は、復活信仰でした。
ここで私たちは、アブラハムの信仰が導き出した驚くべき結論と対面することになります。アブラハムの復活信仰は、旧約という時代を飛び越える信仰でした。今日、私たちはイエス様が復活されたから復活信仰を当然のごとく受け入れますが、アブラハムの時代には死んだ者がよみがえるという「復活」という概念自体が存在しなかったからです。
アブラハムがこのように素晴らしい信仰告白をすることができたのは、神様の御旨の中で、彼の人生が全てに恵まれていたからです。神様の御旨が全てをつかさどり、御言葉が導く人生、そして御言葉に即刻従順する人生は、全てに恵まれた人生です。
全てに恵まれる人生においては、想像もできないようなことを信じることができます。どんな境遇においても神様の御旨に即刻従うことができます。
彼は望みえないときに望みを抱いて信じました。それは、「あなたの子孫はこのようになる」と言われていたとおりに、彼があらゆる国の人々の父となるためでした(ローマ4:18)
アブラハムの信仰は、望み得ないときに望む信仰、弱くなることのない堅固な信仰、神様の約束は必ず成されるという事実を確信する信仰でした。ところが、このように揺れ動くことのない信仰を持ったアブラハムに最大の危機が訪れます。それは、息子のイサクが投げ掛けた一言から始まりました。
これまでそばで一言も話さなかったイサクが、山を登りながらこう質問したのです。「お父さん、いけにえをささげに行くのに、何でいけにえとなる羊はないんですか」
この時、アブラハムの心はくずおれそうだったことでしょう。これまで心に決めたことが一瞬にして崩れてしまうかのようだったことでしょう。このように、従おうと決心しても実際に従うまでは多くの障害物と試みが立ちはだかります。しかし、アブラハムはこみ上げた感情を抑え、もう一度信仰の告白を息子に対してしました。
アブラハムは答えた。「イサク。神ご自身が全焼のいけにえの羊を備えてくださるのだ。」こうしてふたりはいっしょに步き続けた(創世記22:8)
アブラハムは、確かに信仰の人でした。彼は、神様の御言葉を受け取って全く疑わず、従順するのは自分の本分であり、目的であると考え、振り返りませんでした。
信仰によって、アブラハムは、試みられたときイサクをささげました。彼は約束を与えられていましたが、自分のただひとりの子をささげたのです。神はアブラハムに対して、「イサクから出る者があなたの子孫と呼ばれる」と言われたのですが、彼は、神には人を死者の中からよみがえらせることもできる、と考えました。それで彼は、死者の中からイサクを取り戻したのです。これは型です。(へブル11:17~19)
アブラハムは絶対信仰の人でした。アブラハムは子どもを産むことのできない100歳の時に神様がイサクを下さったから、たとえ彼をささげても、死者の中からよみがえらせてくださることを信じたのです。
アブラハムは手を伸ばし、刀を取って自分の子をほふろうとした(創世記22:10)
アブラハムは山に登って祭壇を築いてから、息子を縛って祭壇の木の上に乗せ、「刀を取って」息子をほふろうとしました。ここで私たちが教わるのは、行いのない信仰は死んだ信仰だということです。
信じるというのは、主に全て委ね、自分は何もしないということではありません。信仰とは行動することです。心の中で信じたなら、信仰で行うのが重要です。その時、奇跡が起こります。信仰とは、恵みにふさわしい反応を行動で示すことです。
たましいを離れたからだが、死んだものであるのと同様に、行いのない信仰は、死んでいるのです。(ヤコブ2:26)
アブラハムが信仰で行ったとき、その姿を見て神様の御使いは言いました。
御使いは仰せられた。「あなたの手を、その子に下してはならない。その子に何もしてはならない。今、わたしは、あなたが神を恐れることがよくわかった。あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しまないでわたしにささげた」(創世記22:12)
「今」神様はアブラハムの信仰を完全に認められたのです。こうして従順と決断の結果として信仰を認められたアブラハムは、神様から祝福を報いとして与えられました。これが「エホバ(ヤハウェ)・イルエ」の祝福です。神様は自らいけにえとなる羊を備えられたのです。
アブラハムが目を上げて見ると、見よ、角をやぶにひっかけている一頭の雄羊がいた。アブラハムは行って、その雄羊を取り、それを自分の子の代わりに、全焼のいけにえとしてささげた。(創世記22:13)
神様は私たちの一生の間に必要な全てのものを備えておられ、それを私たちに下さることを願っています。しかし、まず私たちの信仰と従順をご覧になります。
神様は時々私たちの信仰を秤(はかり)にかけます。本物の信仰を所有しているのか、それとも偽物の信仰を所有しているのかを知るためです。そんなとき、私たちもアブラハムのように「あなたの信仰と忠誠、よく分かった」と神様に認められる者とならなくてはなりません。
(イ・ヨンフン著『まことの喜び』より)
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李永勲(イ・ヨンフン)著『まことの喜び』 2015年5月23日発行 定価1500円+税
苦難の中でも喜べ 思い煩いはこの世に属することである
イエス様は十字架を背負っていくその瞬間も喜んでおられました。肉が裂ける苦しみと死を前にしても、淡々とそれを受け入れ、後悔されませんでした。私たちをあまりにも愛しておられたからです。喜びの霊性とは、そんなイエス様に従っていくことです。イエス様だけで喜び、イエス様だけで満足することを知る霊性です。神様はイエス様のことを指し、神の御旨に従う息子という意味を込めて「これは、わたしの愛する子」(マタイ3:17)と呼びました。すなわち、ただ主お一人だけで喜ぶ人生の姿勢こそが、神の民がこの世で勝利できる秘訣だということです。
(イ・ヨンフン著『まことの喜び』プロローグより)
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