元ハンセン病患者の森元美代治さんの「らい予防法廃止から20年 人間回復への願いと私の闘い」と題した講演が6月18日、兵庫県の西宮中央教会で行われた。森元さんは、今年で廃止から20年を迎える「らい予防法」廃止をめぐる法廷での運動や、教会の実態、ハンセン病患者の家族についてなど、約1時間半にわたり語った。
森元さんは今年78歳。14歳でハンセン病と診断され、多摩全生園(東京都東村山市)に隔離された。その後、病気を隠して予備校に通い、慶應大学法学部に入学、卒業後は信用金庫で働いたが、病気が再発して園に戻り、施設で45年を過ごす中、入所者だった美恵子さんと結婚した。
その後「らい予防法」廃止や国賠訴訟にも原告の中心となって活動してきた。カトリックの洗礼を受け、園内にある教会に通ってきた熱心な信徒でもある。講演の概要は以下の通り。
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「らい予防法」廃止をめぐる戦い
私は1970年に再発し、多摩全生園に入所しました。それからの26年間は、はっきり言って自分の人生は終わった、世の中への未練も希望も何もないと思って死んだような人生でした。
療養所にいたことを大学にも職場の仲間にも言わず、両親と兄弟だけに電話連絡するぐらいで、静かに誰も知られずに全生園の中で生涯を終えて納骨堂の中に葬られればそれでいい、家族にも私にもそれがベターだと思っていた。静かに死ぬだろうと思っていた自分がテレビに出たり、こうして教会に来て話をするというのは、自分でも不思議なくらい変わったと思う。
私はカトリックの信者なので自殺はできない、どんなことがあっても、神様からいただいた命だけは全うすればいいと思っていた。しかし、93年に多摩全生園の自治会長になった。前の会長だった平沢保治さんが夏に倒れてしまい、「あなたしかいない。半年でいいから頼む」と頭を下げられ、仕方なしに就任した。
ところが3カ月後の11月に、大谷藤郎(ふじお)先生(1924~2010、医師、元厚生省技官、ハンセン病入所者の生活改善に尽力、1993年には社会医学・公衆衛生分野におけるノーベル賞といわれるレオン・ベルナール賞を受賞。「らい予防法」廃止や国賠訴訟に証人として立ち、原告勝訴に導いた)が、突然「らい予防法を廃止しませんか?」と言って訪ねて来られた。
全患協(全国ハンセン病患者協議会)の予防法対策委員にもなっていたが、「先生、無理ですよ」と述べた。91年に、全患協が「らい予防法一部改正」の要請書を出したが、厚生省は全く答えないという現状があった。その中で、大谷先生が93年11月に個人見解として「一部改正ではなく全廃すべきだ」と問い掛け、施設の入園者は大騒ぎになり、各園の代表が集まって臨時支部長会議を94年4月に開いたが、大騒動になりました。
多摩全生園は賛成したが、13の施設のうち11園は全廃には反対で、「みんな予防法が無くなったら困ると言っているから賛成できない」と言われた。大変な激論と組織が分裂しそうなほどの状態の中、半年をかけて必死で説得し、初めて多数決をすることになり11対2で賛成にこぎつけました。
施設の中にある教会の当時の状況
厚生省の役人である施設の所長たちも「予防法が廃止されたら入所者は施設から出ていかなければならない。路頭に迷うことになる」と、患者に言ってまわり、それを聞いて全廃に反対する人も多かった。
当時、私は信徒として、全生園の中のカトリック教会に行っていた。教会にはフランス人、イタリア人など、さまざまな国の神父様が来ていて非常に楽しい雰囲気があったが、誰も予防法廃止のことをミサで触れず、結審するまで「良かったですね」と言ってくれる人もいなかったことがとても寂しかった。
後から分かったが、全生園のカトリック信徒の中で「らい予防法」廃止賛成派は1人もおらず、まして裁判などとんでもないということで多くの信徒が神父様に陰口を言っていた。
「こんな恵まれた生活をして何が不満なのか」「神様に感謝していない」「森元は裁判でいい気になっているが、本当にカトリック信者なのか? あれは(だまそうとする)“トリック信者ではないか”」と言う先輩信徒もいて、神父様はみんなの気持ちを察して触れなかったのだろうと思う。
「らい予防法」は一部改正賛成、全廃は反対、裁判はとんでもない、という意見が強く、カトリック信者だけでなく聖公会も、日本基督教団秋津教会も、仏教徒も同じだったと思う。
妻が施設の女湯に行くと、入所者の女性から「森元さん困るなぁ。裁判なんてとんでもない。大学出ているのに分からないのかなぁ、旦那に言ってやってよ」と、毎日言われてしんどい思いをしていた。
そこで秋津教会(日本基督教団)や聖公会の各教会を回ってできるだけ多くの信徒から賛成してもらおうとしたが、ほとんどは門前払いだった。「裁判の話をするならもう来ないでくれ」と、クリスチャンの先輩に言われた。それほど施設の患者は冷ややかだった。
施設の中での2重、3重の差別
入所者で在日韓国人だった原告のリーダーに対しては「在日韓国人が日本の療養所にいて日本政府に裁判を起こして1億円ぶんどろうなんてとんでもない。そんな外国人は本国に帰れ」と、面と向かって言う人もいた。今のヘイトスピーチと同じです。
彼はとても優れた頭脳と人柄で原告団の事務局長になったが、私も「何で外国人をリーダーにするんだ」と怒られたこともある。同じハンセン病で同じ施設の釜の飯を食いながら2重3重の差別があったのが療養所の実態でした。
施設にいた600人の中で原告になってくれたのは58名だけだった。弁護費用もかかるのに負け戦に誰が参加するかという雰囲気だった。ところが2001年5月にほぼ全面勝訴となり、1400万円から800万円の4段階の賠償金が支払われることになると、あれだけ批判していたのに原告に入れてくれという人が殺到した。
2週間の控訴期間の間に全生園で400人、全国で約3千人が原告に参加した。何と浅ましいことかなと思うけれど、療養所も人間社会の縮図だと思いました。私は仕方ないと思い、一切批判しませんでした。私自身戦っていて負ける裁判だと思っていたのですから・・・。
なぜ「らい予防法」廃止に反対していたのか?
「らい予防法」廃止に反対していた理由は、療養所が「らい予防法」という法律によって作られており、根拠法がなくなったら療養所がなくなり、自分たちはどこへ行けばいいのか?老人ホームにも病院にもおそらく受け入れてもらえないから全廃には反対するということだった。無理もない心配だし、所長たちや多くの医師たちもそう脅かしていた。
しかし、全廃運動の中心となった大谷先生が「みんなは心配しているが、日本国民はみんな良心を持っている。これだけ隔離され、家族を失い人生を失い、ひどく苦しんだのだから『らい予防法』をなくして“すぐ出てけ”という人はいない。もしそう言う人がいたら私が許さないし、絶対に説得して回る。だから、自分を信じてぜひ賛成してください」と言ってくれたので、その言葉を信用して訴訟に臨んだ。
しかし、その運動を「新興宗教」と揶揄(やゆ)する患者の人もいた。私たちは開き直ったような気持ちで「言いたいなら言え」と思ってやってきました。
法廷では本名を名乗って証言する
厚生省との裁判は2回法廷の証言台に立ちました。東京の第1次の21名の原告のうち半分は匿名だったが、付き合いがあった(当時)HIV訴訟を戦っていた川田龍平さん(現参議院議員)から、「森元さん、裁判になったら絶対に匿名ではだめです。本名で頑張らないと」と言われて、最初から本名を名乗って裁判を戦った。最後に証言に立ったときは、こう述べました。
「私は14歳でハンセン病になって24歳で病気が治り大学に行き、28歳で就職し、4年間会社に勤めました。その8年間、自分がハンセン病であることは誰にも言えなかった。言ったら大学は即退学、会社は首だからです。それが『らい予防法』でした。もし韓国やフィリピンのように1960年代に予防法が廃止され、隔離政策が廃止されていたら、当時多くの20代、30代の人は人生をやり直すことができた年齢のはずです。なぜ日本だけ96年まで続いたのですか。多くの入園者は社会復帰し家庭を持つことができたはずです。こんなに悔しいことはない。私たちはそれを40年忍んできました。裁判長、あなたがハンセン病になったらどうしますか。あなたもご家族も泣いたでしょう。だけど、病気を治して裁判官をすることができたでしょう。私たちはそれを30年前にしてほしかった。それが悔しいのです」
裁判長はその後、「森元さんにあのことを言われたとき、答える言葉がなかった」とあちこちで語っていたということです。「らい予防法」廃止のために、命をかけて戦った。血圧が129(最低)と180(最高)までいったこともある。裁判の間、本当に法律について勉強しました。恥も外聞も投げ捨てました。「らい予防法」が廃止できて、世の中が変わり、本当によかったと思います。(続きはこちら>>)