ハンセン病に対する差別や偏見と闘ってきた、元患者の平沢保治さん(88)が6月27日、国立ハンセン病資料館(東京都東村山市)で、「苦しみは歓(よろこ)びをつくる」と題して講演。74年間にわたってハンセン病と共に生きてきた人生を語るとともに、受けた苦しみをどう生かしていくかを話し、「生きることに価値がある」と命の大切さを訴えた。
現在は、国立ハンセン病資料館運営委員、東村山市身体障害者患者連絡会副代表などを務め、日本各地で講演活動をしている平沢さんが発病したのは14歳の時。ハンセン病の長い歴史の中でも最も過酷だったといわれる第二次世界大戦の真っただ中だった。1年で治してくれ、しかも無料だということで、東村山市にあるハンセン病療養所「多磨全生園」に行くことにした。しかし、入所すると、すぐに裸にされ、消毒液の入った風呂に入れられて、持ち物は全て燃やされてしまった。次の日には、葬式を出す時のために、何かの宗教に入るよう勧められた。「治るためではなく、死ぬための宗教か・・」とがくぜんとしたという。
ハンセン病患者の隔離を定めた「癩(らい)予防ニ関スル件」(1907年)に基づき建てられた同園は、病院というよりも刑務所に近かった、と平沢さんは当時を思い返す。「刑務所は刑を終えれば出られるが、『らい』と宣告を受ければ、公然と社会に帰ることはできない」。平沢さんは「経過措置や軽症ということで園から出られても、病気については一生口にすることはできず、隠れて暮らすしかなかった」と言い、ハンセン病に対する偏見が自分だけではなく、家族や親戚にまで及ぶつらさを口にした。
現在、生まれ故郷の茨城県では「いばらき大使」を務めているが、いまだに同県古河市にある実家を訪れることができずにいる。また、檀家(だんか)と寺の反対で、いまだ両親の墓参りもできていないという。
18歳の時に終戦を迎えた平沢さんは、1960年に同園で結婚式を挙げた。ただし、結婚の条件として、1948年に制定された優生保護法に基づく「断種手術」(生殖を不能にする手術)を受けなければならなかった。「医師でもない看護師に、犬・猫のように断種された」と、当時抱いた憎しみを語ったが、「しかし、そこでとどめてはいけない。それをどう生かして国民の一人として生きていくかを考えなければという気持ちになった」と述べた。また、戦争中あれほど憎んでいた米国が、自分たちを救う薬を開発してくれたことを知り、「どこの国の人とも仲良くしていかなければと思い、世界の平和にも取り組むようになった」と語った。
平沢さんがハンセン病を公にする勇気を奮い起こす大きなきっかけとなったのは、23年前、電車の中で泣く子どもを、不自由な手を使ってあやしたことで、子どもが喜び、母親からもお礼を言われたことだった。この時、「不自由な手でも役に立つ」と分かり、それ以来人前でも手を隠さなくなったという。
「72億人いる世界の中で、自分は一番幸せな人間であり、幸せを体に感じて一日一日を生きている」と言う平沢さん。「多くの人たちから一緒に生きていこうと励まされ、自分は子どもを持てないが、年間5~6千人の子どもたちから『平沢さん、平沢さん』と声を掛けられ、握手を求められる」ことに大きな喜びを感じていると語った。
ハンセン病のため、死を考えたこともあったという平沢さんは、「生きることに価値がある」と断言する。「この地上で、人間として両親からもらった命を大切にしてほしい。困ったときには、誰でもいいから相談してほしい。一人一人が命を失わず、喜びの中で生きてほしい」と力を込めて訴えた。
会場からは、3年前の交通事故で障がい者となった女性から、「今以上に偏見の強かった時代から、社会に対して働き掛ける力を、諦めずに持ち続けてきたことに感銘を受けた」という声などが聞かれた。また講演終了後、20代の女性は「苦しかった経験を力に変えて話され、その表情は幸せに満ちていて、聞いていた私も幸せな気持ちになれた。平沢さんと関わった子どもたちも、希望を持つことができたのではないか」と感想を述べた。
この講演会は、ハンセン病を正しく理解してもらおうと、公益社団法人好善社が毎年開催している。好善社は、1877年に米国人の女性宣教師ケート・ヤングマンと女子学生10人により、「キリストの精神を社会的に実践する」ことを掲げて発足。その後、一人の女性ハンセン病患者との出会いが契機となり、私立のハンセン病療養所「慰廃園」を設立。戦後は、国立ハンセン病療養所内の教会堂の建設や、全国から集められた学生・社会人によるワークキャンプ、国内療養所への積極的な訪問など、療養所との関わり、入所者との交流を続けている。30年前からは、タイのキリスト教NGO団体である「チャンタミット社」(真の友)と協力して、タイのハンセン病患者やその家族の支援も行っている。
◼︎ 公益社団法人好善社