森元さんと家族の和解
いろいろなことを調べているうちに、1996年3月に夫婦で『証言・日本人の過ち ハンセン病を生きて』(人間と歴史社)という本を出そうと決心しました。問題は家族だった。兄弟に手紙を書いて原稿の一部を送って率直な意見を聞きました。「もしこの本を出すことについて兄さん姉さんが賛成か反対か、率直にイエスかノーか返事がほしい」と書いたら、返事は「イエス」だった。
「美代治たちは長い間療養所にいて、『らい予防法』廃止運動に頑張ってきたことを風のたよりで聞いていた。よかったなぁ。廃止できてお前たちもうれしいだろうが、家族もうれしい。家族もどれだけ苦労したか分からない。お前たちは療養所で音楽や映画やスポーツを楽しんで病気を忘れることはあるだろう。でも、家族は一日たりとも忘れたことはない。『らい予防法』のおかげでいつも世間の目を気にして生きてきた。お前もうれしいだろうが、家族もうれしいぞ。ご褒美に本を書いていいぞ」という手紙だった。
本の中では3つのことを書きました。まず1つ目は「ハンセン病とは何か?」という病気の説明と自分や家族がどう歩んできたかを書いた。2つ目は大学の仲間、職場の仲間ともう一度友情を温めたいという気持ちがあった。3つ目は家族のことだった。入所者は家族とみんな縁を切られていた。私もそうだった。本の中で「家族はどうか私たちと一緒になって戦ってほしい。間違いは間違いと言ってほしい。隠れて逃げて生きるのではなく、堂々と森元美代治は私の弟だ、家族だと言ってほしい」と訴えた。
1、2の目的は簡単に遂げられた。しかし、兄は本が出ると親戚がたくさん来て「あんな本を書いて困った」と言われ、電話で「本を書いていいとは言ったが、全国の本屋で本を売っていいとは言っていない。刷った本を取り戻せ」と言われた。しかし、5千部刷ったからそんなことできないと言ってけんかになりました。
さらに『証言・日本人の過ち』を読んでくれた黒柳徹子さんからテレビの「徹子の部屋」に出てほしいと連絡が来て、うれしくて驚いた。しかし、森元家の親戚中で「馬鹿野郎、テレビに出てお前が森元家のらい病患者として全国に知られたら、どうなるのか分からないのか」と言われ、兄弟姉妹と大喧嘩になった。
それから関係を修復するまで8年間かかった。その後、父が亡くなり、兄も今から10年前に亡くなった。どちらも死に目にも会えなかった。葬儀に行こうと電話をすると姉が出たが、私の声を聞くとすぐ切られた。電話口でしくしく泣いていた。
1年後、兄の一周忌に弟と姉と姪や甥や配偶者が集まることになった。彼らは私の病気を知らなかった。そこで天王寺の近鉄デパートに集まってもらい、妻を連れて行って直接お願いした。
「実は私と妻美恵子は昔らい病といわれ、今はハンセン病という病気になり、今も療養所にいる。もう病気は治ったからみんなの子どもに伝染することもない。私を森元家の一員として普通の付き合いをしてくれないか、そのお願いに来ました」と言った。それから1週間後に弟の娘、姪から手紙が来た。
「おじちゃんとおばちゃんの病気についてはうすうす知っていた。でも、自分の旦那に言おうと思っていたが、喉までかかったが言えないでいた。しかし今日直接来てハンセン病だったと言ってくれて親戚付き合いをしてほしいと頼んだのがとてもよかった。夫は、『病気になって子どもがいなくて森元家でいちばん不幸だったのは美代治さんではないか。みんな貧乏だけど元気に暮らしてきたじゃないか。なぜ美代治さんだけ今でも子どももおらず療養所にいるのか。こんなかわいそうな美代治さんをなぜいじめるのか。家族はそれでいいのか。一番不幸な家族こそ大事にするべきだ』と言ってくれた。今度大阪に来るときは、ホテルではなくわが家に泊まっていってください」という手紙がきた。この手紙を今でも読むと涙が出てきます。
今は大阪に、孫を入れると親戚の家が8軒ある。孫も双子まで産んで私に抱っこさせてくれる。結婚式にも呼んでくれた。兄の死が家族を結び付けてくれた。不思議な縁だと思う。家族の支えがなければ、私はこんな大きな人間になれなかった。大きなというか、ずうずうしい人間ですが(笑)。今では大阪に来ると8軒回るから1日では足りないという、とてもありがたい状況になりました。
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療養所の中で結婚した妻の美恵子さん
森元さんの妻の美恵子さんは、父が日本人で母がインドネシア出身。日本で学び母国に帰って仕事をしたいという夢をもって来日したが、ハンセン病を発病したという。療養所の中の女性たちのことを語った。
「私はたくさんの夢をもって日本に来ましたが、天国から地獄へ落ちたような気分でした。名前も変えさせられました。まだ23歳でした。病気になって施設に入ったら出ることもできず、一生そこで暮らさなければならない。夢も何もない、めちゃくちゃな人生でした。それから40年です」
「全生園の中で病気のことも日本の文化も全て学びました。療養所には、子どもを置いてきたお母さんもいました。孫のような年の私にいろいろ教えてくれました。優しい人もいじわるな人もいっぱいいます。療養所も一つの社会ですから。病気になると、みな亡くなるまで自分の田舎に最後まで行けません。同じ島の生まれだった私が現地を訪ねてビデオを撮って来て、その女性に見せたら泣いていました。そしてその後亡くなりました。今でも行けない方は多いです」
夫婦2人で海外のハンセン病施設を訪ねたこともあるという。「ネパールでは、ハンセン病施設にたくさん子どもがいました。施設の人から、『なぜ日本のような金持ちの国で子どもをつくれなかったのか。子どもと孫は私の宝だ。幾ら金があっても幸せは買えない』と言われ、頭を殴られるような思いでした。やはり日本のハンセン病行政が諸外国に比べてひどいものだったと考えさせられた」とも語った。
「らい予防法」廃止から20年、何が変わったのか?
質疑応答では、「『らい予防法』廃止から20年、何が変わったのか?」という会場からの質問に、森元さんは「東村山など地域社会の人々が全く変わってきた」と答えた。以前は“怖い”というイメージが強かったが、最近はそうではなくなった。“元患者”であり、もう患者ではないことや感染の危険もないことが知れ渡るようになり、地域社会が変わったという。
また、家族も変わってきた。全生園の墓地には亡くなった4200人の方が骨となっても故郷に帰れずに眠っているが、最近はお骨をもらいに来る家族が増えたのが大きな変化で、その数は80件を超えるという。高齢化が進み、毎年全生園では20人ほどが亡くなるが、現在はおおかたの人は故郷のお墓に入れてもらえるようになったといい、それは理解が進んだということなのではないかという。
最後に、森元さんは「また近年は、若い学生たちがハンセン病療養所に来ることが増えて、資料館を見て、私たちに会って話を聞きに来てくれます。語り部がだんだん亡くなっていく中で若いジェネレーションの人たちが来てくれて、記憶を受け継いでくれるのはとてもうれしいです」と語った。