今回は「依存性」ということを考えていきましょう。依存性という表現は社会的認知を得た言葉です。この言葉を知らない人は存在しないと言ってもよいくらいです。本来、依存性は人間の生活に潤いをもたらすものです。
しかし、現代は依存性よりも依存症という言葉がなじみやすい時代になりました。そもそも依存症とは「中毒」「嗜癖(しへき)」とも言われます。依存症は、過度に人や物などに依存し、とらわれてしまったため病理となってしまった状態です。
私たちの周辺でよく耳にする代表的なものでは、アルコール依存症、買い物依存症、ギャンブル依存症などがあります。最近ではDV(ドメスティックバイオレンス)が深刻な問題になっています。これは、共依存です。共依存とは、依存症者を不健全に支えてしまうメカニズムのことです。現代社会の現象を見ると、姿形を変えた依存症が少なくないということです。
ところで、依存症はいつごろから存在するかというと、古代からある人類共通の病理だということです。そこで、理解してもらいたいことは、良い依存性と悪い依存性があるということです。適切な依存性は「相互依存」です。不適切な依存性は、過度に物や人に対する「中毒」「嗜癖」とされる「共依存」です。
さて、聖書では依存性をどのように理解しているでしょうか。神様は人間を限界ある存在として創造されました。人間に限界があるということは、人間は創造者なる神にも物理的にも依存しなければ生きることができないということを意味します。
また、人間の心の奥底には神様から与えられた欲求があります。その欲求が生理的欲求であり、社会的欲求です。別な言い方をすると、人間は心理的側面と物理的側面の両面を持っているということです。
人間は、この2つの側面が満たされなければ真に生きることが難しいのです。私たちは、自分1人でそれらを満たすことには限界があります。だから、依存性が必要なのです。それは、神様が人間を創造したときからあるものだ、ということなのです。
従って、依存性は特別なことではありません。神様は、アダムを創造されたとき、「人が、ひとりでいるのは良くない」(創世記2章18節)とおしゃいました。そして、助け主としてエバを創造されました。この関係が依存関係です。
依存性は、人間の堕落以前から創造の一部として与えられていたものです。ですから、依存性は人間の特性、性質ということになります。パウロが、「キリストによって、からだ全体は、一つ一つの部分がその力量にふさわしく働く力により、また、備えられたあらゆる結び目によって、しっかりと組み合わされ、結び合わされ、成長して、愛のうちに建てられるのです」(エペソ4章16節)と言っている言葉に注目しましょう。なぜなら、依存性は教会の姿に表されているからです。
私たちは、決して1人で生きることはできません。私たちがどんなに人に迷惑をかけずに生きていこうとしても無理があります。誰かの支えがあって今があり、生活が成り立っています。私たちは、お互いに迷惑をかけたり、引き受けたりしながら生きています。これは健全な依存性(相互依存)です。
しかし、私たちはなかなか自分の内にある依存性に気が付かないものです。このような依存性は「弱さ」と言い換えることもできます。なぜなら、私たちは依存性という弱さを抱えているからこそ、1人で生きることができないからです。だからこそ、私たちは支えてくれる存在、支え合う存在が必要なのです。
教会の頭(かしら)はキリストです。決して、牧師を頭とする共同体ではありません。キリストを頭とする教会(共同体)は、それぞれの力量にふさわしく、あらゆる結び目によってしっかりと結び合わされることによって成長するのです。それは、私たちの依存性(弱さ)がしっかりと結び合わされ適切に満たされるということです。こうして、互いが成長し、愛のうちに教会が形成されます。
キリスト教会の大伝道者はパウロです。パウロの働きを通して多くの教会が誕生しました。パウロは決して単独で福音を宣べ伝えたのではありません。彼は多くの同労者の助けを必要としました。具体的には、交わりを求め、祈りを依頼し、献金を集めました。こうして、人の助けを必要としたのです。
つまり、人々に依存したのです。パウロの宣教は、個人の業ではなく、共同体的な業だったのです。別な言い方をすると、「共同体的依存性」ということが言えるのではないでしょうか。そういう意味で、教会が単立の歩みをいつまでも続けることには、限界があります。教会は互いに共同体として相互依存関係にあるのです。
また、私たちの生活においても同じことが言えます。私たちの生活は一般啓示の恵みに依存しています。私たちは、物質的にも心理的にも情緒的にも依存しなければ、人間性を維持することができないのです。ですから、私たちの依存性は適切に満たされる必要があるのです。
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