近年、医療、福祉、教育の分野で「自己肯定感」という言葉を聞くことが多くなりました。この「自己肯定感」を「自尊感情」と言い換えて理解する人もいます。
そこで、自己肯定感の問題について教会生活との関係を踏まえながら、少し考えたいと思います。しかも、自己肯定感はセルフイメージと深く関係している問題でもあります。
さて、一般的に自己肯定感とは「ありのままの自分でよい」「自分はかけがえのない存在だ」という気持ちのことだと理解されています。このような自己肯定感の定義によって、教育や福祉の現場では「自己肯定感が低い者をどうやって高くするか」という内容が議論されます。それだけ、自己肯定感の低い人々が多いということです。
ここで少し立ち止まって、自己肯定感は「ありのままの自分でよい」「自分はかけがえのない存在だ」という理解について、検討してみましょう。この一般的な自己肯定感の理解は、人々に誤解を生じさせています。
どんな誤解かといえば、悪いことでも間違っていることでも肯定することが「ありのままの自分でよい」と思い込んでいる人が多いという現実です。時々「これがありのままの自分だ。自分がこれでよいと思っているのだから、何が悪い」という言葉を聞くことがあるのは、私だけでしょうか。
健全な自己肯定感とは「自分のありのままの姿を、事実を事実として受け入れること」です。自分のありのままの姿とは、「自分の考え、感情、行動」を受け入れることを意味します。
それだけではありません。自分のマイナスの部分やプラスの部分も、自分の一部として肯定的に認めることなのです。
私たちは、日常生活で起こるさまざまな出来事を積極的に肯定し、理解しようとすることがあります。例えば、学生が試験の成績が悪く、再試験となってしまったにもかかわらず、何とかなると考えることがあります。
仕事が中途半端で問題が生じてしまったにもかかわらず、何とかなると考えることがあります。牧師は、説教の準備が中途半端で講壇に立たなければならないことがあります。そんな時、聖霊の導きで何とかなると考えることがあります。これらは、自己肯定ではなく、自分ができていない点を否定しているのです。
では、なぜ私たちは自己肯定ができないか、ということです。それは、低いセルフイメージを形成しているからです。セルフイメージの低い人は、自分に自信が持てず、何をするにも不安を抱え、コミュニケーション能力が未熟です。
また、人の話をなかなか聞くことが苦手で、自分のことばかりを話します。また、自分のマイナスの部分を受け入れることができません。
それは、自分のマイナスの部分を受け入れると、存在価値や存在理由を失ってしまうからです。こうして、自分のマイナス部分に触れないように、抑圧して我慢してしまうのです。その結果、心を病んでしまいます。
私たちの人間関係で次のようなことがないでしょうか。私たちは、日常生活が順風満帆の時は大丈夫と思っていても、誰かに何かささいなことで批判されると、非常なショックを受けてしまうことがあるのではないでしょうか。
私たちは、ショックを受けた感情を「傷ついた」と表現することがあります。そして、「もう自分は駄目だ」と考えてしまうのです。
また、逆に物事がうまくいっていると有頂天になり、何でもできるかのように感じてしまいます。この時の感覚は、自己肯定感が高いように感じているのです。
人間関係の中で、なぜ自己肯定感がアップダウンするかといえば、セルフイメージが歪んでいるからです。その歪みのために、自己肯定感が高くなったり低くなったりするのです。
こうなると、自己肯定感が高いと高慢になります。自己肯定感が低いと劣等感を抱えることになります。自己肯定感が低くても高くても、本質的には同じです。ですから、自己肯定感を扱うためにはセルフイメージの問題に触れなければなりません。
ところで、セルフイメージとは何でしょうか。私たちは、例外なく生まれたとき、セルフイメージはありません。セルフイメージとは、生まれてから養育者との関わりの中で形成されるものです。
私たちは、養育者との関わりの中で自分自身に関するイメージを形成します。養育者から肯定的あるいは否定的なメッセージをどのくらい受けたかによって、セルフイメージの形成に違いが生じます。
実は、さまざまな研究で、養育者のセルフイメージと子どものセルフイメージは同じであることが分かっています。それだけ養育者と子どものセルフイメージには相関関係があるということです。
養育者のセルフイメージが健全であれば、子どもも健全となります。従って、自己肯定感が低いということは、養育者のセルフイメージが低いということです。
自己肯定感とセルフイメージは表裏一体です。ちなみに、私たちのセルフイメージの土台は6歳までに形成されます。私たちは、6歳までに形成された土台を担って学童期、青年期、成人期、老年期を生きなければなりません。
一般的に自己肯定感を高めるためには、「小さな成功体験を積ませながら褒める」「頑張りを認めてあげる」などが有効的であるといわれます。この指摘も疑問があります。それは、成功体験を褒める人の基準に則しているかどうかにかかっているからです。
つまり、条件付けの褒め言葉になってしまいます。ですから、行動を褒めることは健全な自己肯定感を高めません。健全なセルフイメージの形成に大切なことは、存在を褒める、受け止めることです。それは、その人の存在を否定しないことでもあるのです。
教会生活でありがちな姿は、奉仕という行動を褒め、評価をしているという点です。この評価こそ、評価する人(牧師・教会員)の基準です。
その結果、信仰的自己肯定感が高くなったり低くなったりしています。そして、奉仕という行動を評価する人の基準に合うか否かによって、信仰の自己肯定感のレベルが形成されてしまうのです。
その結果「信仰が強い」「信仰が弱い」という評価基準が生じたと思います。これらの現象が、教会で互いに裁き合い傷つき合ってしまう原因の一つとなっているのです。
特に、牧会者は自分のセルフイメージと自己肯定感が教会全体にどのような影響を与えているか、吟味する必要があるのではないでしょうか。そのためにもイエス様は、私たちの存在を喜び認めてくださっていることを確認したいと思います。
イエス様は健全なセルフイメージと自己肯定感を形成しておられた方です。私たちは、イエス様の使徒として召され、イエス様と相関関係にあるのですから安心です。ですから、私たちは修正すべきところを修正し、良き働き人に整えていただきましょう。
「聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。それは、神の人が、すべての良い働きのためにふさわしい十分に整えられた者となるためです」(Ⅱテモテ3:16、17)
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