私は、先日Aさんから「あなたはできちゃった婚で産んだ子なのよ」と母親から告知された方の心の痛みについて聴きました。この言葉は衝撃的な言葉です。なぜなら、これは「存在否定」の言葉だからです。
なぜ、存在否定の言葉でしょうか。それは、「あなたは望まれて生まれてきたのではない」と言われていることと等しいからです。
当然ながら、この言葉を聴いた本人は「私は愛されて生まれてきたのではなかったのか」と存在を否定された感覚と共に失望してしまいました。そして、Aさんは心に深い傷を受けてしまったのです(本人を確定できないよう加工しています)。
近年、結婚式場で執り行われる結婚式の80~90パーセントは「できちゃった婚」だといわれます。このことを考えると、結婚式の背後に深刻な悲劇が隠れていることになります。
ある日、教会員の中学生Aくんは、同級生を連れて教会にやって来ました。Aくんの同級生は精神的にとても不安定でした。そればかりか、問題児とされていたのです。Aくんは、その同級生に変わってもらいたいという一念で教会に連れてきました。
私は、彼の話を聴きながら、なぜ精神的に不安定になり問題児と言われるようになったのか分かってきました。彼は、深夜台所に夜食を食べに行ったとき、両親が話している言葉をドア越しに聴いてしまいました。それは、「あの子は予定外の子どもだったのよ」という存在を否定する衝撃的な言葉でした。この言葉を聴いた彼は、これを境に、精神的に不安定になり、生活が乱れていったのです(本人が確定できないよう加工しています)。
私たちが深く心が傷つく経験は、「自分は愛されていない」と感じるときです。また、人から存在を否定されるような言動によって「人とのつながりが壊れた」「人とのつながりを感じない」と思ったときです。そんなとき、私たちは孤独感や空虚感を感じてしまいます。
私たちが、「自分が愛されていない」「人とのつながりを感じない」と感じるとき、深い悲しみを抱えることになります。私たちが心に深い悲しみを感じているときこそ、良き理解者を必要とするのではないでしょうか。
私たちにとって「良き理解者」とは、どんな存在なのでしょうか。もともと、「良き理解者」(accompaniment)について調べてみると、「仲間、伴侶」(companion)というラテン語の言葉cum paneと同根です。つまり、「良き理解者」は、本物の「仲間、伴侶」だということです。ラテン語のcum paneは「パンと共に」という意味です。
この「パンと共に」という言葉から何を連想するでしょうか。私は、共に分かち合うこと、一緒に食べること、互いに養い合うこと、一緒に歩くことなどを連想します。そうすることによって、傍観者ではなく「良き理解者」となり、本物の「仲間」となることができるからです。
私たちは、よく「寄り添う」という言葉を使います。私たちが、人々と寄り添う者となるためには、良き理解者になることです。その世界に、慰めや癒やしがあります。
私は、教会で一番良き理解者となるべき存在から遠い存在は牧師ではないか、と感じています。私たちが牧師に相談に行くと、「御言葉に従いなさい」「確信がありますか、祈りなさい」「神様を信頼しなさい」などと言われてしまうことが少なくありません。私たちは、そんな言葉を聞くたびに「そんなこと分かっているよ。ただ聞いてほしいだけだ」と心の中でつぶやくことが多いのではないでしょうか。
また、牧師は苦しくなると、「あなただけではないのよ。皆もそうなのよ。それに比べたらまだ良い方ですよ」と言われてしまうこともあります。その度に、「もう話すのはやめた。何も分かってもらえない」という感じになります。
牧師のこのような対応によって、私たちは二重の苦しみを経験することになってしまいます。その結果、教会で孤独感と虚無感を味わうこととなるのです。
イエス様は人々にとって「良き理解者」でした。イエス様は、取税人をはじめ人々から嫌われ排除されている人々の傍らに立ち、一緒に食事をしました。また、客となったこともありました。
マタイの福音書9章10節には「イエスが家で食事の席に着いておられるとき、見よ、取税人や罪人が大ぜい来て、イエスやその弟子たちといっしょに食卓に着いていた」とあります。その様子を見ていたパリサイ人たちは弟子たちに、「なぜ、あなたがたの先生は、取税人や罪人といっしょに食事をするのですか」(マタイ9:11)と問うたのです。
ルカの福音書19章1~10節には、有名なザアカイとイエス様の出会いの記述があります。人々は取税人の頭ザアカイを罪人として嫌っていました。イエス様は、そのザアカイの家に客となって宿泊されたのです。その状況を見ていた人々は「『あの方は罪人のところに行って客となられた』と言ってつぶやいた」(ルカ19:7)とあります。
イエス様は、存在を否定され、心に深い傷を負っている者たちの「良き理解者」となってくださったのです。これが、「寄り添う」ということです。
私たちは、「良き理解者となるのか」「つぶやく者となるのか」「人を排除する者となるのか」が問われているのではないでしょうか。これは、個々人だけではなく教会も問われているのです。
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渡辺俊彦(わたなべ・としひこ)
1957年生まれ。多摩少年院に4年間法務教官として勤務した後、召しを受け東京聖書学院に入学。東京聖書学院卒業後、日本ホーリネス教団より上馬キリスト教会に派遣。ルーサーライス神学大学大学院博士課程終了(D.Mim)。ルーサーライス神学大学大学院、日本医科大学看護専門学校、千葉英和高等学校などの講師を歴任。現在、上馬キリスト教会牧師、東京YMCA医療福祉専門学校講師、社会福祉法人東京育成園(養護施設)園長、NPO日本グッド・マリッジ推進協会結婚及び家族カウンセリング専門スーパーバイザー、牧会カウンセラー(LPC認定)。WHOのスピリチュアル問題に関し、各地で講演やセミナー講師として活動。主な著書に『ギリシャ語の響き』『神学生活入門』『幸せを見つける人』(イーグレープ)、『スピリチュアリティの混乱を探る』(発行:上馬キリスト教会出版部、定価:1500円)。ほか論文、小論文多数。
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