家庭内に起きたある事件
神は私たちを滅びの中から助け出されるとき、必ず日常生活の中にあるささいな出来事を通して、その奇跡を起こされるものです。以前、私がまだ6歳だった頃、神は弟のけがを通して一家心中を企てた両親の手を止められたことがありました。今同じ手がこのとき私に働いて、家族を一つにし、愛の絆で結び合わせ、そして遠のいていた私の信仰生活を元の軌道に戻してくださったのでした。
その頃、私は土曜日、日曜日が忙しく、普段の日は子どもが学校に行く頃に起き、仕事から帰ると子どもは寝ている――という生活だったので、子どもと会話をする機会がほとんどありませんでした。子どもが家にいて遊んでいるときも私は家にいないのでコミュニケーションというものがなく、何か子どもがいたずらか悪いことをしていないか――と妻は不安を感じていたようです。
私は子どもの教育に自信がなく、深く子どもと関わることができずにいました。母親が子どもに注意をしても、子どもは言うことをきかない。そういうとき、私は息子を呼び、「ママの言うことをちゃんと聞きなさい。分かった?」「言うことを聞けないなら、この家にいられないよ」と言うだけでした。
子どもはそんな中で、父親に甘えられない。父親から愛を受けていない。父親に話したいことも上手に言えない――そういう葛藤があったのでしょう。そのうち、彼は良くない友だちと一緒に遊び、やがて悪いことを覚えたのです。
そんなある日のこと、警察から電話がかかってきました。「お宅の息子さんが、仲間と一緒にバイクを盗んで乗り回しています。何人かの子どもが共謀して盗み、二人ずつ交代で乗っているようです」。息子はたまたまもう一人の友だちと一緒にバイクに乗ったその日に警察に捕まったのでした。
私は悪い夢でも見ているような思いで、妻と一緒に警察に行きました。すると、警察官は、「どうか息子さんとよく話し合ってください。そして、息子さんの心を理解してあげてください」と言いました。そのとき感じたのは、「このおまわりさん、何だか牧師のようだな」ということでした。
それから、家に子どもを連れて帰り、彼に言いました。「いったい何ということをしたのだ。とんでもないことだ。すぐに謝りなさい!」。このとき息子は、あまりに私の声が大きかったものだから、萎縮をしてしまい、「ごめんなさい」ということが言えなかったのです。私は気が動転し、心が怒りでいっぱいだったものでしたから、彼が答えるより先に手を上げ、思わず息子を殴ってしまいました。
その夜、私は眠れないままに、自分の父親がどのように私を育て、愛してくれたのかを思い出しました。一度も殴ったりしたことなどなく、よく祈り、いつも静かに諭してくれたではないか。両親は、その深い信仰と愛をもって、子どもたちを心から慈しんでくれたのだ。それなのに、私は自分の子どもの話を十分に聞くことなく殴ってしまった。子どもに暴力をもって何かを教えるということは、決して良いことではない。そう思って自分の思慮のなさ、忍耐力の足りなさに打ちひしがれる思いでした。
そのときです。私の心に、子どもを連れてもう一度教会に行きたい――という思いが湧き上がってきたのです。そうだ!愛をもって、みことばをもって、祈りをもって、そして励ましをもって子どもを見守ること、それが本当の親子の関係ではないだろうか。私はそのことに13年目にしてやっと気付かされたのでした。
私はそのときから、子どもを連れて月一回教会に行くことにしました。もともと私は横浜にある「横浜華僑基督教会」(中国人がよく集まる教会)で礼拝を守っていたのです。しかし、子どもたちは中国語が得意でない。そこで日本人の教会に子どもを連れて月一回行くことになりました。そのうち、子どもが嫌がらないということが分かったので、月二回、三回、そして毎週連れて行くことになりました。
当初、私はまだ子どもの育て方、教育の仕方ということが得意ではありませんでした。教会に連れて行くというのが精いっぱいだったのです。そのうち、子どもが毎週教会に行くということに抵抗がなくなったので、「横浜華僑基督教会」に戻ることになりました。
今思えば、子どもを教会に連れて行くという私の目的は、子どもに良くなってほしいという思いがあったためであり、もう一度自分が神の前に戻り、赦(ゆる)しを得たいという熱心な思いからではありませんでした。そういう中で、普段の生活はあまり変わらず、子どもの生活もあまり変化しなかったのでした。そして相変わらず家族はバラバラ。子どもと話をするのが得意でない私は何とか機会をもって子どもと話がしたいという思いがありました。
しかし、こんな私をも神は見捨てず、やがて心の底から悔い改め、それと共に家族全員が恩寵(おんちょう)のうちに救われるその日を準備してくださっていたのでした。
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荘明義(そう・あきよし)
1944年中国・貴州省生まれ。4歳のときに来日、14歳で中華料理の世界に入り、四川料理の大家である故・陳建民氏に師事、その3番弟子。田村町四川飯店で修行、16歳で六本木四川飯店副料理長、17歳で横浜・重慶飯店の料理長となる。33歳で大龍門の総料理長となり、中華冷凍食品の開発に従事、35歳の時に(有)荘味道開発研究所設立、39歳で中華冷凍食品メーカー(株)大龍専務取締役、その後68歳で商品開発と味作りのコンサルタント、他に料理学校の講師、テレビや雑誌などのメディアに登場して中華料理の普及に努めてきた。神奈川・横浜華僑基督教会長老。著書に『わが人生と味の道』(イーグレープ)。