今思うと、クリスチャンだった母親の涙と祈りが、私たちの家族の上に大きな役割を果たしてきました。弟の明立は、母が天に召されたその日に牧師の道を選びました。彼はカナダに留学し、そこで家庭を持ち、現地に永住したので、父が亡くなるときには戻ってこられませんでしたが、姉は日本に戻ってきて親の最期を看取ったのでした。本当に幸いなことでありますが、姉も弟も共に外国に行くという人生の選択をし、現地でキリスト教に触れ、そしてクリスチャンホームを築いているのです。
この私自身も、小さいときから母の涙と祈りに支えられてきたことを今思うのです。いちばん強く心に残っているのは、何といってもあの14歳のとき、コックの修業がつらくて何度も辞めようと思うたびに、母の涙を見て勇気づけられ、元気づけられ、その苦しい道のりを乗り越えることができました。母の涙は私にとって、宝石よりも尊い、神の贈り物のように思えます。
もう一つ、母の涙の強い記憶があります。振り返ってみると、10歳くらいのときでしょうか。こんなことがありました。その当時は家が貧しく、欲しいものが手に入らない時代でした。私はよくいたずらをしたり、本屋に行って本を盗んだり――と、ずいぶん悪いことをしたものです。ある日、本屋で本を盗んで家に持ち帰ってくると、それが母に見つかってしまいました。すると、母は私に正座をさせ、私の手の甲に針を刺したのです。そして、祈りの言葉を口にしました。
「神様、この手がどうか二度と悪さをしませんように」
その時、私の手の上に母の涙がこぼれ落ちたのでした。もちろん、手も痛かったのですが、この母の涙は私に一つの忠告を与えたのでした。そして私は二度と再び万引きをするようなことはなくなったのです。母は勇気をもって私の手に針を刺し、そして祈りの中に、私の心にメッセージを伝えたのでした。
信仰生活を振り返るとき、やはり自分は母の祈りに導かれてきたのだと思わざるを得ません。当時はあまり熱心でなく、神から離れ、信仰から遠ざかったこともありますが、この母の信仰深い姿を思い出すことによって、私は何度も危険な淵から引き上げられました。母は姉のために、弟のために、そして私のためにいつも祈りを通し、より良い道を選ぶことができるようにと神に助けを求めていたのです。実に、母は祈りの人でした。自分が重い病気になって入院し、いちばん苦しいその時でさえ、見舞いに来てくれた人々を慰め、励ます――そういう母だったのです。この母が亡くなって以来、13年間、私は教会から遠ざかり、一度も足を向けることがなかったのです。しかしながらそんなある時、この母の涙と祈りを神はご覧になって、私がもう一度信仰生活を取り戻す日がやってきたのです。
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荘明義(そう・あきよし)
1944年中国・貴州省生まれ。4歳のときに来日、14歳で中華料理の世界に入り、四川料理の大家である故・陳建民氏に師事、その3番弟子。田村町四川飯店で修行、16歳で六本木四川飯店副料理長、17歳で横浜・重慶飯店の料理長となる。33歳で大龍門の総料理長となり、中華冷凍食品の開発に従事、35歳の時に(有)荘味道開発研究所設立、39歳で中華冷凍食品メーカー(株)大龍専務取締役、その後68歳で商品開発と味作りのコンサルタント、他に料理学校の講師、テレビや雑誌などのメディアに登場して中華料理の普及に努めてきた。神奈川・横浜華僑基督教会長老。著書に『わが人生と味の道』(イーグレープ)。