思えば、私はコックになったときから、酒というものにつながれていたような気がします。そもそも、コックというのはとても仲間意識が強いので、私は入ったときから先輩たちと一緒に食べ、一緒に飲み、一緒に遊ぶということをしていました。それですから、14歳で修業に入ったその日から、彼らと一緒に酒を飲む習慣がついたのです。酒を飲むことに何の抵抗もありませんでした。結構、私も酒が強いほうでした。
当時は景気も良かった時代なので、客が酒を注文するとき、今なら皆の飲む量をあらかじめ見てから足りない分を追加注文するということをしますが、この時は一つテーブルにビールが何本、日本酒が何本、紹興酒(しょうこうしゅ)が何本――と、飲みきれないくらいの酒が、そしてまた食べきれないほどの料理が並びます。それだから宴会が終わると、必ず酒が残るのです。そして、それを売るというわけにはいかなかったので、終わると必ず厨房に調理用にと自分たちの所に下げてくる。コックたちは自分でお金を出さなくても、余った酒が全て厨房に集まるので、それを好きなだけ飲むのでした。業務が終了し、全ての掃除が済んだ後、酒が好きな人たちはそれからどんなに飲んだとしても問題はありませんでした。
当時のコックたちで、酒に酔いつぶれて体を壊す人がずいぶんいました。酒というものは毎日飲み続けていれば、必ず体に弊害があるものです。捨てるより飲んでしまおうと思って飲む人、自分の金ではなく客が残したものだからただで飲めると思って飲む人、さまざまでしたが、相当酒に強い人でも健康を害したり、酒で身を持ちくずしたりする人が多くいました。
私自身、そのような付き合いの中で、酒をたしなむようになり、ある程度飲んでも酔うということが少なかったので、次第に酒の量が多くなってきました。そんな中で、私の信仰生活も惰性に陥り、習慣的に教会に通いながら、その片方で酒を飲み続けたのです。やめなければ――ということを特に意識していませんでした。なぜなら、酒を飲むことは善悪の判断から考えるべきものではなくて、私の生活の中の習慣であり、生活の一部でしたから。このような時に両親が亡くなったのですが、「酒の生活」だけが残り、信仰生活はそのまま止まってしまいました。
結婚して2年目に長男義光、その翌年に長女明恵を授かったときも相変わらず酒を飲んでいましたが、妻は心配しながらも毎晩晩酌の準備をしてくれました。当時、わが家の倉庫の中には酒が何十本もあり、いつでも切れることがなかったのです。子どもが少し大きくなっても、この酒びたりの生活は変わることがありませんでした。そして、休みの日には朝から酒を飲み、自分の時間は好きなように使っていました。その間、家族は一つ屋根の下にいるのに、心を一つにすることができませんでした。私はこっちでテレビを見ながら酒を飲み、妻はミシンをかけることに専念し、子どもたちは部屋で遊ぶ――というようにバラバラでした。そして自分はそれを珍しくも、変だとも感じることがなかったのです。
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荘明義(そう・あきよし)
1944年中国・貴州省生まれ。4歳のときに来日、14歳で中華料理の世界に入り、四川料理の大家である故・陳建民氏に師事、その3番弟子。田村町四川飯店で修行、16歳で六本木四川飯店副料理長、17歳で横浜・重慶飯店の料理長となる。33歳で大龍門の総料理長となり、中華冷凍食品の開発に従事、35歳の時に(有)荘味道開発研究所設立、39歳で中華冷凍食品メーカー(株)大龍専務取締役、その後68歳で商品開発と味作りのコンサルタント、他に料理学校の講師、テレビや雑誌などのメディアに登場して中華料理の普及に努めてきた。神奈川・横浜華僑基督教会長老。著書に『わが人生と味の道』(イーグレープ)。