問題はイエスが解決してくださる
病気になって、以前よりもずっと神に頼るようになった。とはいっても、信仰の弱さ故、何度も落ち込んでしまった。でも、暗闇の中で希望の光を与えてくれたのは、いつもイエス・キリストであったように思う。イエス・キリストとその生涯の中には、全てのことが凝縮されてあって、問題の解決もまた、どんな問題でもその中に凝縮されてある。
キリストは、完全な人としてこの世に来られたのである。神としてならこの世の苦難、苦痛は何でもないだろう。しかし、人としてなら、彼の苦痛、苦難は大変なものである。その極たるものであり、私たちのそれとは比較にならない。それ故、彼の生涯と彼の心痛を思うとき、私たちには、本当の救いの気持ちが与えられる。私たちの当座の苦痛からの解放だけでなく、究極的な問題の解決までも再認識させてもらえる。彼は神であったが、この世では完全なる人であった。それ故、彼は悲しみの人であった。
「イエスは悲しみもだえ始められた」(マタイ26:37)
私たちでも経験するところであるが、苦難、苦痛が予定されているとき、それを待つのは精神的にかなりの重荷である。私たちの想像力というのは、ときとして現実よりも強いときがある。
「イエスは少し進んで行って、ひれ伏して祈って言われた。『わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください』・・・イエスは二度目に離れて行き、祈って言われた。『わが父よ。どうしても飲まずには済まされぬ杯でしたら、どうぞみこころのとおりをなさってください』」(マタイ26:39、42)
私たちは神から見捨てられることはない。神の恵みにより救われている。しかし、イエスはその神からも見捨てられた。もちろん、イエスは側近中の側近である全ての弟子からも見捨てられた。こんな孤独は、私たちには耐えられないことである。しかしイエスは、こんな中にあっても神に従い続けられ、苦痛の中に死を全うされた。
「そのとき、弟子たちはみな、イエスを見捨てて、逃げてしまった」(マタイ26:56)
「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」(マタイ27:46)
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米田武義(よねだ・たけよし)
1941年4月16日、大阪生まれ。大阪府立三国丘高等学校、国立静岡大学卒業。静岡県立清水東高校定時制教師を勤めた後、東北大学大学院、京都大学大学院(国土防災技術(株)国内留学生)で学ぶ。国土防災技術(株)を退職し、(株)米田製作所を継承する。2008年4月8日、天に召される。著書に『死に勝るいのちを得て―がん闘病817日の魂の記録―』(イーグレープ)。