私たちにとって「愛」という言葉は、耳に心地良い響きを感じさせます。この「愛」という言葉は、男女の関係、家族関係はもちろん、医療、福祉などさまざまなところで使われます。しかも、どの分野でも、愛の重要性を強調します。しかし、人間の愛の現実は複雑です。愛は、感動的な人間ドラマを生み出します。なぜなら、愛の言葉は、私たちを励まし、慰め、癒やし、優しさなどを与えてくれるからです。それは、新しい生きる力になります。反面、愛の言葉が私たちに悲劇をもたらすことも少なくありません。愛という名の虐待などは一例です。
人々の多くは、教会に対して「愛が溢れ、何でも受け入れてくれるところ」と思っています。そのような人々が教会を訪ねたとき、自分の期待に添うような対応(対処)がされないと、「あの教会は愛がない」と感じ、失望して帰ってしまいます。
教会の人間関係はどうでしょうか。それは、互いに何かを担い、仕え合う関係です。そして、キリストの体なる教会を形成していきます。しかし、互いに仕え合う関係の中で自分の期待通りの対応(対処)をしないと、「あの人は愛がない」と他者を否定してしまうことが少なくありません。そして、教会の人間関係が崩れ、互いに裁き合うことが始まります。心痛むことですが、互いに仕え、愛し合う関係が、互いに傷つき合う関係となってしまいます。こうして、ある人たちは教会を去ってしまいます。
牧師はどうでしょうか。牧師たちは、人々(教会員を含め)が教会や牧師に慰めや癒やしを求めていることを感じています。それだけに、牧師は神様に委ねられた方々を精一杯受容しようと関わります。牧師たちは、人々からどんな理不尽なことや否定的なことを言われても、忍耐し受容しようとします。それが愛であり、牧会だと思っているところがあるからです。
そんな牧師たちの対応(対処)に対して、「先生は愛がない」「牧師らしくない」と言われてしまうことがあります。牧師たちの多くは、これらの言葉に傷つき落ち込みます。そして、相手の期待に添うよう対応(対処)するようになってしまいます。
こうして、心の中に怒りをため、育ててしまいます。そのため心が病んでしまうのです。牧師ほど怒りの出し方、処理の仕方が下手だということです。愛という名の悲劇です。牧師も牧師以前に一人の人間です。牧師だって同じように傷つき落ち込みます。
これらの姿に共通点があることに気が付きます。それは、愛とはいかに相手が自分の期待通りに寄り添い対応(対処)してくれるかにかかっているということです。自分の期待通りに寄り添い対応(対処)する人に対しては「愛のある人」となります。しかし、自分の期待から外れた対応(対処)をされると「愛のない人」となってしまうということです。これが、人々が「愛のある人」と「愛のない人」を区別する現実ではないでしょうか。また、愛は、人を傷つけ、人を病む人にしてしまうことがあるということです。
16世紀のフランスの哲学者モンテニューは「起こる物事によって私たちが傷つくのではなく、起こった物事にどう対処するかによって私たちは傷つくのである」と言っています。
私たちは、人のことよりも、自分が他者にどう対応(対処)しているか、吟味する必要があるのではないでしょうか。 私たちは、互いに生かし合う愛を身に付けたいものです。
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渡辺俊彦(わたなべ・としひこ)
1957年生まれ。多摩少年院に4年間法務教官として勤務した後、召しを受け東京聖書学院に入学。東京聖書学院卒業後、日本ホーリネス教団より上馬キリスト教会に派遣。ルーサーライス神学大学大学院博士課程終了(D.Mim)。ルーサーライス神学大学大学院、日本医科大学看護専門学校、千葉英和高等学校などの講師を歴任。現在、上馬キリスト教会牧師、東京YMCA医療福祉専門学校講師、社会福祉法人東京育成園(養護施設)園長、NPO日本グッド・マリッジ推進協会結婚及び家族カウンセリング専門スーパーバイザー、牧会カウンセラー(LPC認定)。WHOのスピリチュアル問題に関し、各地で講演やセミナー講師として活動。主な著書に『ギリシャ語の響き』『神学生活入門』『幸せを見つける人』(イーグレープ)、『スピリチュアリティの混乱を探る』(発行:上馬キリスト教会出版部、定価:1500円)。ほか論文、小論文多数。
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