私たちは、誰でも誰かに「あなたらしいわね」と言われることがあるはずです。この言葉に対する反応は「そんなことありません」「今まで自分で気が付かなかったなあ」「そうかなあ、本当は違うけどなあ」などです。考えて見ると「あなたらしいわね」は、一つの客観的な評価ではないでしょうか。しかも、それは自分で気が付いていない自分の一側面であったりするものです。謙遜に耳を傾けたいと思います。
また、私たちは日常生活の中で否定的感情に支配され、落ち込んだりすることがあります。そればかりか、困難や試練のただ中を通過し、精神的にも霊的にも落ち込むことがあります。そんなとき私たちは、「自分らしさ」を失い、「自分らしくないなあ」とつぶやくことがあるものです。そんな姿を傍らで見ている人たちは、「あなたらしくないね。しっかりしなさい」と励ましてくれます。でも、その言葉はつらい言葉として心に響いたりします。
近年、教会の礼拝で語られる説教で「あなたはあなたらしくありのままで良いのです。イエス様はありのままのあなたを受容し愛してくださっているのです」という言葉を聞くことが多くなりました。このような説教について渡辺善太は「心理学的説教」と指摘しています。しかも、心理学的説教は「会堂の入り口までしか連れていけない。至聖所までは連れていけない」と言っています。なぜなら、十字架で裂かれるということがないからです。私は、とても鋭い指摘だと思います。
さて、私たちが理解しなければならないことは「らしさ」ということです。私たちは、「あなたらしさ」「自分らしさ」についてどう理解しているでしょうか。この問題について、聞き取り調査をしてみると、感覚的で主観的であり、具体性がないことが分かります。
私たち個々人の人格には「個人間の差異」があります。例えば、どこの教会にも主日礼拝に毎回遅れて来る人がいるはずです(いなければ幸いですが)。そのような人に対する反応は個々違います。つまり、その人らしいとは、「反応」の仕方に「一貫性」があるということです。それは、自分の中に受け継がれている何かがあり、その人の内に変えることのできない何かがあるということを意味しています。例えば、細かいところにこだわる人は、成育環境または遺伝のどちらも可能性があると考えられます。そのような人は、この場になると「こう反応するだろう」「こう行動するだろう」と推測することができるものです。それは、反応の仕方に「一貫性」があるため予測可能なのです。
つまり、人格とは一貫性のある反応の仕方ということです。それが「らしさ」であり人格なのです。
人格とは統合性であるともいわれます。しかも、人格をつかさどっている部分は、脳の前頭葉です。前頭葉は、人間らしい精神機能(行動と欲求の制御)、理性的な思考や計画的な行動の遂行、感情のコントロールをつかさどっている重要な部分です。つまり、人格は知的な部分、感情的な部分、社会的地位の統合性です。それだけに、人を部分だけで見ず総合的に見ることが大切なこととなります。私たちは、他者理解や自己理解をするとき、いろいろな側面を見ながら総合して判断しないと失敗してしまいます。注意しましょう。
私たちは、イエス様らしさをどのように理解しているでしょうか。もちろん、イエス様は真の神であり真の人間です。イエス様は、罪がある者たちを愛し赦(ゆる)されている姿がたくさん聖書には記録されています。また、平和を愛し、謙遜で、弱さを抱えている人々に寄り添うイエス様の姿も知ることができます。そのイエス様は、ペテロに対して「サタン」(マルコ8:33)と激しく怒りをぶつけました。さらにイエス様は、神殿が強盗の巣(マタイ21:13)になっている様子をご覧になり、激しく怒り、人々を追い出しました。このように、イエス様らしさは、罪に苦しみ弱さを抱えている者たちに寄り添い、不正に対して怒りを発する姿です。このイエス様の反応には一貫性があります。これがイエス様らしさです。
イエス様の弟子たちはどうでしょうか。ルカは医者でした。そのためとても詳細に物事を観察し、理論的に説明する人でした。ペテロはおっちょこちょいで失敗の多い人でした。皆、それぞれ反応の仕方に一貫性があります。それが「らしさ」であり人格です。ヨハネはかつて「怒りのヨハネ」と呼ばれていました。しかし、イエス様に出会ってから「愛のヨハネ」に変わりました。ヨハネは、もともと持っていた「ヨハネらしさ」が罪赦されたことによって表出(ひょうしゅつ)したのです。
私たちは、ヨハネのように十字架で罪赦されたとき、本来持っている「自分らしさ」が表出するはずです。十字架の恵みのうちに「自分らしさ」を再発見した者です。
イザヤが次のように言っています。
「わたしの名で呼ばれるすべての者は、わたしの栄光のために、わたしがこれを創造し、これを形造り、これを造った。」(イザヤ43:7)
神様は私たち一人一人の「自分(私)らしさ」を通して「わたしの栄光を表す」とおしゃってくださっています。それは、「自分(私)らしさ」を通して恥をかかない神ということです。何という恵みでしょうか。
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渡辺俊彦(わたなべ・としひこ)
1957年生まれ。多摩少年院に4年間法務教官として勤務した後、召しを受け東京聖書学院に入学。東京聖書学院卒業後、日本ホーリネス教団より上馬キリスト教会に派遣。ルーサーライス神学大学大学院博士課程終了(D.Mim)。ルーサーライス神学大学大学院、日本医科大学看護専門学校、千葉英和高等学校などの講師を歴任。現在、上馬キリスト教会牧師、東京YMCA医療福祉専門学校講師、社会福祉法人東京育成園(養護施設)園長、NPO日本グッド・マリッジ推進協会結婚及び家族カウンセリング専門スーパーバイザー、牧会カウンセラー(LPC認定)。WHOのスピリチュアル問題に関し、各地で講演やセミナー講師として活動。主な著書に『ギリシャ語の響き』『神学生活入門』『幸せを見つける人』(イーグレープ)、『スピリチュアリティの混乱を探る』(発行:上馬キリスト教会出版部、定価:1500円)。ほか論文、小論文多数。
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