今回も一つのお話をします。あるご夫婦に結婚してから11年目に男の子が生まれました。このご夫婦は愛し合っており、赤ちゃんは目に入れても痛くないほどかわいい子でした。その男の子が2歳になった頃のこと、ある朝、台所のテーブルの上に薬の瓶のふたが開いたまま置いてあることに気が付きました。夫は仕事に遅れそうになっていたので、妻に薬の瓶のふたをして子どもの手の届かない所に閉まっておいてくれるように頼んで家を出ました。妻は台所仕事に気を取られていて、その事をすっかり忘れていました。やがて幼児はその薬の瓶を見て近づき、薬の色に興味を持って、全部飲み込んでしまったのです。その薬は成人用の薬で、幼児は絶対に飲んではいけない危険なものでした。子どもが倒れた時、母親は驚いてすぐに救急車で病院に連れて行きました。しかし、子どもは残念ながら手当てのかいなく死んでしまったのです。母親はがくぜんとしました。恐ろしくて夫の顔を見る勇気をなくしてしまいました。自分の不注意のために子どもが命を落としてしまったのです。どんな言い訳も通じません。夫が病院に来て、わが子が死んでしまった姿を見た時、彼は妻に一言、言いました。なんと言ったと思われますか。
「愛しているよ」と言ったのです。
夫は心の中でこう思ったのでした。子どもは死んだ。もう生き返ることはできない。妻を責め立てても意味がない。自分が薬の瓶を子どもの手の届かないところに置いておけば、こんなことにならなかったのだ。誰も責め立てられるべきではない。妻はたった一人の子どもを失ったのだ。妻が必要としていることは、夫からの理解と慰めだ。そのように考えた夫は、それを妻に示したのでした。
もし、私たちが物事をこのように見ることができれば、この世界はきっと変わっていくことでしょう。この世界の問題も少なくなるでしょう。私たちの心から、ねたみや、許せない心や、自己中心や、恐れの心を取り除いていくなら、人生から苦しみをずっと軽減していけるに違いありません。そのことのためにイエス・キリストがこの世界に来てくださったのですね。
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福江等(ふくえ・ひとし)
1947年、香川県生まれ。1966年、上智大学文学部英文科に入学。1984年、ボストン大学大学院卒、神学博士号修得。1973年、高知加賀野井キリスト教会創立。2001年(フィリピン)アジア・パシフィック・ナザレン神学大学院教授、学長。現在、高知加賀野井キリスト教会牧師、高知刑務所教誨師、高知県立大学非常勤講師。著書に『主が聖であられるように』(訳書)、『聖化の説教[旧約篇Ⅱ]―牧師17人が語るホーリネスの恵み』(共著)など。