人は人によって癒やされる
人間は弱い。だから落ち込むときもある。本当に神経がまいってしまうくらい落ち込むときもある。社会の人間関係の柵から逃げようにも逃げられずに落ち込むときもある。また長く続いた緊張から解き放たれ、一時放心状態になったようなときや、あまりにも長い目的への道のりに落胆したときや、その他いろいろである。私の今の落ち込みは、解き放たれた緊張感のようなもので、贅沢といえば贅沢な落ち込みである。
今私が心より思っていることは、本当に人との交わりが恋しいということである。特に教会の人々との交わり、家庭集会や礼拝がしたくてたまらない。もちろん、その他の人たちとの交わりもしたい。私は今回ほどいろんな方面で人の温かさを感じたことはなかった。病院の看護師や先生の親切、近所の老人会の人たちの気遣い、英会話教室の先生やスタッフの励ましや祝福、教会以外の人々の温かい声援や祝福にも、本当に心を打たれた。だからそういう人々の集まりにも行きたい。けれども本当にわだかまりのない、一点の曇りや邪念のない気持ちで参加したいと思うのは、前者、つまり教会の人々の集まりである。私がクリスチャンであるのだから当然といえば当然だといえる。今まで、そうではなかったのがおかしいのである。
人はそれほど強い存在ではあり得ない。わずかな試練ですぐ落ち込んでしまう。神はこんな弱い存在を十分知っておられるからこそ、癒やされるために互いに祈り合いなさい(「ですから、あなたがたは、互いに罪を言い表し、互いのために祈りなさい。いやされるためです。義人の祈りは働くと、大きな力があります」[ヤコブ5:16])と言っておられる。互いに支え合うばかりでなく、人を通じても神は救いの御手を伸べられる。
私たちの究極の救いは、罪赦(ゆる)されて天国へ行けるということにある。これは、ひとえに人となられたイエス・キリストの究極の孤独の経験から、このイエス・キリストの計り知れない尊い行為と引き換えに私たちに与えられたことを決して忘れてはならない(「三時ごろ、イエスは大声で、『エリ、エリ、レマ、サバクタニ』と叫ばれた。これは、『わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか』という意味である」[マタイ27:46])。
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米田武義(よねだ・たけよし)
1941年4月16日、大阪生まれ。大阪府立三国丘高等学校、国立静岡大学卒業。静岡県立清水東高校定時制教師を勤めた後、東北大学大学院、京都大学大学院(国土防災技術(株)国内留学生)で学ぶ。国土防災技術(株)を退職し、(株)米田製作所を継承する。2008年4月8日、天に召される。著書に『死に勝るいのちを得て―がん闘病817日の魂の記録―』(イーグレープ)。